第10話「夫婦の朝」
「おはよう」
レオン様の声で目が覚めた。
隣に、人の温もりがある。寝台の右側、私の手が届く距離に、レオン様がいる。朝の光が薄く差し込む部屋の中で、こちらを向いている。
「おはようございます」
声が自然に出た。三年間、一度も交わさなかった朝の挨拶。昨日初めて触れた手の温度がまだ掌に残っている。それなのに、この挨拶はまるで何年も続けてきたかのように滑らかだった。
レオン様が寝台から降りた。窓を開けると、早春の朝の空気が流れ込んできた。冷たいけれど、冬の鋭さはもうない。
「茶を淹れる」
「私が——」
「今日は俺が淹れる」
そう言って、レオン様は部屋を出ていった。
私は寝台の上でしばらく動けなかった。
食堂には、庭の花が一輪、小さな瓶に挿してあった。
薄青紫の花。あの朝、茶碗の隣に置かれていたのと同じ花。レオン様が今朝、庭から摘んできたのだろう。
テーブルの上には茶が二つ。レオン様が淹れた茶。湯気が立っている。
向かい合って座った。
レオン様が茶碗を持ち上げ、一口飲んだ。
「……薄い」
「ふふ」
笑ってしまった。レオン様は茶を淹れるのが上手ではなかった。三年間、飲む側だった人が淹れるのだから当然かもしれない。
「明日からは私が淹れます」
「……そうしてくれ」
レオン様の口の端がわずかに上がった。照れているのだと分かった。
マルグリットが朝食を運んできた。焼きたてのパン、温かいスープ、果物、それから香草焼き。
「おはようございます、旦那様、奥様」
「ああ」
「おはよう、マルグリット」
マルグリットは食器を並べながら、いつもの調子を保っていた。けれど目元が柔らかい。昨日、廊下の角で泣いていたことを、私は知っている。マルグリットもそれを知っている。何も言わない。言わなくていい。
食事をしながら、レオン様が口を開いた。
「家督の継承を進める。父上に書簡を出す」
「はい」
「聖騎士の任を解かれた以上、侯爵家の嫡男として手続きを始めるべきだ」
レオン様はパンをちぎりながら言った。短い言葉を選んで、一つずつ並べるように。
「私も、当主夫人としての務めを始めます」
「……ああ。社交の場にも、出ることになる」
「ええ」
社交。その言葉に、少しだけ胸が重くなった。半年以上、社交行事への招待が途絶えていた。噂のせいだ。神殿が公式に否定する文書を出したとはいえ、社交界の空気はすぐには変わらない。
けれど、変わり始めてはいる。
昼前に、玄関の鐘が鳴った。
マルグリットが応対し、居間に戻ってきた。
「奥様、エミール様がお越しです」
居間の扉を開けると、エミールが立っていた。外套の裾に旅の埃がついている。ヴァイスフェルト領から馬車で四日。着いたばかりなのだろう。
「姉上」
エミールの声が少し上ずっていた。私の顔を見て、それから隣に立つレオン様を見て、二人が並んでいることに一瞬目を丸くした。
「遠いところをありがとう、エミール」
「いえ、姉上のご無事を確認したくて——手紙では、どうしても」
エミールは深く頭を下げた。それからレオン様の方を向き、姿勢を正した。
「レオン様。このたびは、姉がお世話になりました」
「……あなたのおかげだ」
レオン様の声は静かだった。
エミールが顔を上げた。
「あなたの調査がなければ、査問は成立しなかった」
レオン様はエミールをまっすぐに見ていた。
「姉上を、大切にしている」
不器用な言葉だった。言い慣れていない言葉を、一つずつ選んで口にしている。けれどその不器用さが、この人の誠実さだと私は知っている。
エミールは一瞬、言葉を失った。目が赤くなりかけた。けれどすぐに唇を引き結び、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。姉を、よろしくお願いいたします」
声が震えていた。年相応の、二十歳の弟の声だった。
エミールが客間で休んでいる間に、マルグリットが居間にやってきた。
「奥様、先ほど使用人の者から聞いたのですが」
「何かありましたか」
「社交界で、査問の結果が広まっているようです。夫人方が何人か、お見舞いの書簡を送りたいとおっしゃっているとか」
お見舞い。
半年前まで私を遠巻きにし、招待状を送らなくなった人たちが、今度は見舞いの書簡を送りたいと言っている。
手のひらを返す、という言葉が頭に浮かんだ。前世の言葉だ。
「届いたら、いつも通りにお返事を書きます」
「かしこまりました」
いつも通りに。丁寧に、穏やかに、距離を保って。遠ざけられていた時期と同じ距離感で、同じ礼儀で接する。怒りを見せるわけでも、許したふりをするわけでもない。ただ、変わらない態度で返す。
それが一番、彼女たちの居心地を悪くするだろう。
意図してそうするわけではない。私はもともとこういう距離感の人間だ。けれど結果として、あの人たちは気づくことになる。自分たちが噂に乗って離れた事実を、私が静かに覚えていることに。
夕刻。
食堂で夕食の準備をしているとき、マルグリットが封書を持ってきた。
「奥様、神殿からお届けものです」
封蝋に大神官の紋章が押されていた。
開封した。
大神官フェルディナントからの書簡だった。
短い文面だった。聖護誓約制度の運用見直しのため、諮問委員会を設置する。配偶者の権利に関する知見を持つ者として、侯爵夫人の助言を求めたい。正式な招聘状は後日送付する。
書簡を読み終えて、テーブルに置いた。
諮問委員。制度改善の助言役。侯爵家の嫡男の妻という立場から、聖護誓約制度そのものの見直しに関わる。
半年前の私なら、こんな話は来なかった。噂に包まれ、社交界から遠ざけられていた私には。
けれど今は違う。冤罪が晴れただけではない。自分で制度を調べ、委任状を取り、記録を閲覧し、査問の場に立った。その経緯が大神官の目に留まったのだろう。
「何だ?」
レオン様が食堂に入ってきて、テーブルの上の書簡に目をやった。
「大神官様から、諮問委員の招聘です。聖護誓約の運用見直しについて」
レオン様は黙って書簡を見下ろした。それから、小さく頷いた。
「……お前がやるべきだ」
「受けてもよろしいですか」
「俺が止める理由がない」
その言い方に、少しだけ笑った。止める理由がない。つまり、やってほしいと思っている。この人は肯定を否定の否定で表す。不器用なのは変わらない。けれどもう、その不器用さの奥にあるものを読み違えることはない。
夜。
食事を終え、エミールが客間に下がった後、食堂に二人で残った。
マルグリットが食器を片づけ、暖炉に薪を足して去っていった。
静かな食堂だった。暖炉の火がゆっくりと燃えている。窓の外は暗いが、昨日よりも日が長くなっている。早春が少しずつ進んでいる。
「ねえ、レオン様」
「何だ」
「明日の茶葉は何がいいですか」
レオン様は少し考えた。
「……お前が選ぶものが、いい」
「また薄い茶を淹れてしまうかもしれませんよ」
「それでいい」
窓の外に春の花はまだ咲いていない。けれど庭の木々の枝先に、小さな芽が膨らみ始めているのを、昼間に見た。
三年かかった朝が、こんなに穏やかだとは思わなかった。
戦いは終わった。冤罪は晴れた。誓約は解けた。制度はこれから変わっていく。
そして明日も、私は茶を淹れる。レオン様はそれを飲む。
それだけのことが、今はただ、嬉しい。
(完)
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