第1話「触れない夫」
書斎の前に、茶碗を置いた。
両手でそっと床に近い小卓の上へ。指先が磁器の縁から離れるとき、かすかに湯気が揺れる。
三年間、毎朝同じことを繰り返している。
起きて、顔を洗って、髪を整えて、台所で湯を沸かして、茶葉を量って、書斎の前に置く。レオン様が神殿へ出かける前に、必ず。
一度も、一度も「ありがとう」とは言われたことがない。
それでも続けている理由を、私はまだうまく言葉にできない。
廊下を数歩戻り、角を曲がったところで足を止めた。
壁に背をつけて、息をひそめる。
足音が聞こえた。
重く、けれど迷いのない歩幅。革靴の底が石の廊下を叩く規則正しいリズム。聖騎士として鍛え上げられた人間の歩き方だ。
書斎の扉が開く音。
ほんの短い沈黙。
——そして、磁器がわずかに擦れる音。
茶碗を手に取った。
私は毎朝この音を聞いている。三年間、一日も欠かさず。
音だけで分かることがある。前世で学んだ——いや、この身体に染みついた技術が、音の微細な違いを拾い上げる。
迷わず手に取っている。探す動作がない。つまり、茶碗がそこにあることを知っている。待っている。
もうひとつ、気づいていることがある。
茶碗の位置だ。
私は毎朝、小卓の中央に置く。真ん中、きっちりと。けれど翌朝回収するとき、茶碗は必ず少しだけ右にずれている。飲み終えた後に戻すとき、無意識に利き手の側へ寄るのだ。
右利き。
茶碗を右手で持ち上げ、飲み、右手で戻す。そのとき元の位置ではなく、右に二寸ほどずれる。
これが「拒絶」の所作であるはずがない。
拒絶するなら飲まない。中身をそのまま残すか、侍女に片づけさせる。わざわざ自分で持ち上げて、空にして、戻す必要はない。
……分かっている。分かっているのに、確信が持てない。
観察できるものは読める。微表情、身体の向き、呼吸の変化。他人の感情なら、たぶん誰よりも正確に。
けれど自分のことになると途端に分からなくなる。
私はこの人に何を期待しているのだろう。
廊下を戻り、階段を降りて、台所へ向かった。
マルグリットが朝食の支度をしている。銀髪を丁寧にまとめた四十五歳の筆頭侍女は、私の足音だけで誰が来たか判別できる人だ。
「奥様、おはようございます」
振り返らずにそう言った。手元では焼きたてのパンを籠に並べている。
「おはようございます、マルグリット」
「旦那様のお茶は」
「置いてきました」
「左様でございますか」
それだけのやり取り。三年間、これも変わらない。
マルグリットは何も聞かない。茶碗が空で返ってくるかどうかも、私がどんな顔で戻ってくるかも、見ていて何も言わない。
この人の沈黙には優しさがある。前世の知識がなくても、それくらいは分かる。
朝食を終えて、薬草庫の整理をしていたとき、ふと手が止まった。
棚の奥に、乾燥させた月見草の束がある。
二ヶ月ほど前だったと思う。私が庭先で摘んだ月見草を乾燥させて茶に混ぜたことがあった。特に意味はない。季節の薬草を試しただけだ。
あの日の翌朝、茶碗を回収したとき、いつもと違うことがひとつだけあった。
茶碗の横に、小さな紙片が置かれていた。
紙片にはレオン様の筆跡で、たった一言。
「悪くない」
三年間でたった一度だけの、茶への感想。
——悪くない。
それは褒め言葉なのだろうか。社交辞令なのだろうか。それとも、あの人なりの精一杯の言葉だったのだろうか。
棚の月見草を手に取った。
今朝の茶には入れなかった。けれど明日はどうだろう。
少しだけ、試してみたいことがある。
翌朝。
いつもと同じ時間に、いつもと同じ手順で、書斎の前に茶碗を置いた。
ただし今日の茶には月見草を混ぜてある。「悪くない」と言われた、あの味。
これは実験だ。
もしレオン様が味の変化に気づいて、何らかの反応を示すなら——それは、私の茶を毎朝ちゃんと味わっているということの証明になる。義務で口をつけているだけなら、薬草がひとつ増えたところで気づかない。
角を曲がって、壁に背をつける。
足音。
扉。
沈黙。
磁器の音。
いつもと同じだ。何も変わらない。
私は少しだけ肩を落として、自室へ戻った。
その日は一日中、家計簿の整理をしていた。
ハイデンライヒ侯爵家の家政は、この三年で私の仕事になっている。義父のハインリヒ様は領地におられることが多く、レオン様は聖務で屋敷にいる時間が限られる。必然的に、日々の運営は私とマルグリットで回すことになった。
数字を追っていると、余計なことを考えずに済む。
インクの匂い。紙の手触り。燭台の炎が揺れるたびに、数字の影がわずかに動く。
誰かの足音が廊下を通り過ぎた。レオン様ではない。歩幅が違う。おそらく庭番のヨハンだ。
……こうやって足音で人を判別している自分に、ときどき呆れる。
前世の技術は便利だけれど、この使い方が正しいのかどうかは分からない。
夕刻、マルグリットが自室を訪ねてきた。
「奥様、明朝のお茶の用意は」
「いつも通りで構いません」
「……奥様」
何かを言いかけて、やめた。マルグリットがそういう間の取り方をするのは珍しい。
「何でしょう」
「いえ。何でもございません。おやすみなさいませ」
一礼して、廊下へ消えた。
何だったのだろう。あの一瞬の沈黙に、何かが含まれていた気がする。けれどマルグリットが言わないと決めたことを、私が掘り返すべきではない。
翌朝。
三日目の朝。
茶碗を置きに行く前に、台所で湯を沸かしていたら、マルグリットが黙って月見草の瓶を差し出してきた。
「……マルグリット?」
「昨日、旦那様が庭番にお尋ねになっていたそうでございます。月見草の在庫があるかと」
心臓が一拍、強く打った。
「庭番に?」
「はい。ヨハンが申しておりました」
レオン様が、庭番に月見草のことを聞いた。
二日前の茶に混ぜた月見草を。味の変化に、気づいたのだ。
何も言わなかった。紙片も残さなかった。けれど庭番にだけ、聞いた。
——この人は。
この人は、言葉にしないだけで、全部分かっているのではないだろうか。
指先が少し震えた。月見草の瓶を受け取り、丁寧に茶に混ぜる。今日も同じ味にする。「気づいています」というこちらからの返答として。
マルグリットは何も言わなかった。ただ小さく頷いて、朝食の支度に戻った。
昨夜の沈黙の意味が分かった。彼女はヨハンからの報告を、すでに昨日の時点で知っていたのだ。けれど私に言うかどうか迷った。余計な期待を持たせることになるかもしれないから。
最終的に、言うことを選んでくれた。
ありがとう、とは言わなかった。代わりに、いつもより丁寧に茶を淹れた。
書斎の前に、茶碗を置いた。
月見草入りの茶。湯気が立ち上る。
角を曲がる前に、一度だけ振り返った。
いつもはそんなことをしない。置いたら去る。それが三年間の作法だった。
今日だけは、振り返った。
書斎の扉は閉まっている。廊下には誰もいない。小卓の上で、茶碗がぽつんと湯気を上げている。
もし明日、茶碗が空になっていたら。
それは期待していいということなのだろうか。
——いや。
もう期待している。認めよう。私はこの三年間、ずっと期待していた。足音を聞き分けるほどに。茶碗のずれを測るほどに。
前世で学んだ理論なら、これを何と呼ぶか知っている。けれど自分自身のこの感情に名前をつけるのは、まだ怖い。
名前をつけたら、失ったときに壊れてしまいそうだから。
翌朝。
四日目の朝。
書斎の前の小卓に、空の茶碗があった。
そして茶碗の隣に、小さな花が一輪。
見たことのない花だった。薄い青紫の花弁が、朝の光に透けている。茎は短く切り揃えられていて、水を含んだ小さな布に包まれていた。
しおれないように、してある。
私はしゃがみ込んで、その花をしばらく見つめた。
名前は分からない。庭に咲いていた花だろうか。それとも、どこか別の場所から。
触れようとして、指を止めた。
——レオン様は、これを私に見せるために置いたのだろうか。
茶碗の右に二寸。花は茶碗の左に。
まるで、私が茶を置くのと同じように。言葉の代わりに、ここに置いたのだ。
呼吸が浅くなった。目の奥が熱い。
泣かない。泣くのはまだ早い。
花をそっと持ち上げ、自室に持ち帰った。窓辺の小瓶に水を入れて、差した。
薄い青紫が、朝の光の中で揺れている。
名前も知らない花。
けれど今は、名前よりも大事なことがある。
この花は——返事だ。




