第1話 唯一の配達員、異世界で笑われる
雨の日の配達は、だいたい地獄だ。
スマホの画面には、次の届け先までの距離が表示されている。
七百メートル。
たった七百メートル。
けれど、目の前の道路は渋滞で詰まり、歩道には傘を差した人間が川のように流れ、マンションの入口はなぜか工事中で、インターホンは裏口に回らないと押せない。
地図上では七百メートル。
現実では、三十分の沼。
「……最短ルートって、誰が決めてんだよ」
俺――佐倉蓮司は、濡れたヘルメットのシールドを指で拭った。
配達バッグの中には、冷めかけた唐揚げ弁当が入っている。
遅れれば低評価。
濡らせばクレーム。
道に迷えば自腹みたいな空気。
そんな毎日を、俺はずっと続けていた。
別に夢があったわけじゃない。
ただ、生きるために走っていた。
朝から晩まで。
晴れの日も、雨の日も、風の日も。
誰かの腹を満たすために、俺は街を走っていた。
それ自体は嫌いじゃなかった。
ただ――報われないだけで。
「佐倉さん、また遅延ですか?」
通話アプリ越しに、管理側の冷たい声が響く。
「この雨と渋滞じゃ無理です。しかも入口が封鎖されてて――」
「でも、他の配達員さんは間に合ってますよ?」
便利な言葉だ。
他の誰かはできている。
だから、お前もできるはず。
俺は言い返す気力もなく、通話を切った。
「はいはい。俺が悪いですよ」
信号が青に変わる。
俺は原付のアクセルを回した。
その瞬間だった。
横から、ライトが迫った。
クラクション。
濡れたアスファルト。
滑るタイヤ。
宙に浮く体。
配達バッグから飛び出した弁当。
そして最後に、俺は思った。
ああ。
せめて、届けてから死にたかったな。
◇
「――よって、貴様に授けるスキルは【最短経路】である」
気づくと、俺は白い空間に立っていた。
目の前には、やたら神々しい老人がいる。
白い髭。
白いローブ。
白い杖。
絵に描いたような神様だ。
たぶん、異世界転生というやつなのだろう。
説明は雑だった。
死にました。
別世界に行きます。
スキルをあげます。
頑張ってください。
以上。
「いや、ちょっと待ってください」
「なんじゃ」
「【最短経路】って、地図アプリですか?」
「まあ、似たようなものじゃな」
「俺、死ぬ前までそれに振り回されてたんですけど」
「では慣れておるな」
「そういう問題じゃない」
神様はほっほっほと笑った。
笑い事ではない。
剣とか魔法とか、もっとあるだろう。
炎を出すとか、雷を落とすとか、ステータスをいじるとか。
なのに、俺のスキルは【最短経路】。
異世界に来てまで配達しろというのか。
「安心せい。おぬしには向いておる」
「俺に?」
「誰よりも道を探し、誰よりも遠回りに泣き、誰よりも届けることを諦めなかった」
その言葉に、俺は少しだけ黙った。
「おぬしに必要なのは、最強の剣ではない」
神様は杖で俺の胸を軽く突いた。
「たどり着く力じゃ」
視界が白く染まる。
足元が消える。
重力が裏返る。
俺は落ちた。
次に目を開けた時、そこは石畳の路地裏だった。
◇
異世界生活は、思ったよりも厳しかった。
魔法はある。
剣もある。
冒険者ギルドもある。
けれど、金がない。
家もない。
知り合いもいない。
そして俺のスキルは、相変わらず地味だった。
「スキル名は?」
冒険者ギルドの受付嬢が、羊皮紙を片手に尋ねる。
「【最短経路】です」
「……道案内ですか?」
「たぶん」
「戦闘系ではありませんね」
「でしょうね」
受付嬢の目から、期待が消えた。
分かりやすい。
「では、荷運びか採取依頼から始めるのがよろしいかと」
そうして俺は、異世界でも荷物を運ぶことになった。
笑える。
いや、笑えない。
だが、やってみると俺のスキルは意外と便利だった。
森の中で薬草を探す時。
複雑な街の路地を抜ける時。
荷物を届ける時。
頭の中に、薄い光の線が浮かぶ。
それをなぞれば、目的地まで迷わず行ける。
遠回りもない。
袋小路もない。
危険な道も、ある程度避けられる。
ただし、派手さはなかった。
魔物を倒せるわけじゃない。
火球を撃てるわけじゃない。
回復できるわけでもない。
だから俺は、すぐにギルド内でこう呼ばれるようになった。
「歩く地図」
悪口としては、かなり弱い。
けれど、じわじわ効くタイプのやつだった。
◇
転機が来たのは、異世界に来て三ヶ月目のことだった。
「おい、お前。荷物持ちを探してるんだが」
声をかけてきたのは、金髪の青年だった。
整った顔。
新品の鎧。
腰には立派な剣。
周囲の冒険者たちがざわつく。
「勇者アルベルトだ」
「王都から来た本物の勇者様だぞ」
「魔王軍の前線調査に行くらしい」
勇者。
いかにも主役側の人間だ。
そんな男が、俺を見て言った。
「スキルは?」
「【最短経路】です」
「ほう。道案内か」
「まあ、そうですね」
「ちょうどいい。迷宮で使える。荷物持ちとして雇ってやる」
雇ってやる。
その言い方に少し引っかかったが、報酬は悪くなかった。
前金だけで、宿代一ヶ月分。
断る理由はない。
「分かりました。やります」
「足を引っ張るなよ」
勇者アルベルトは笑った。
その後ろには、三人の仲間がいた。
赤髪の女魔法使い。
大盾を持った大男。
白い法衣の女僧侶。
全員が、俺を見ていた。
仲間を見る目ではない。
道具を見る目だった。
◇
迷宮の中で、俺のスキルは役に立った。
「右です」
「なぜ分かる?」
「目的地までの最短経路が見えます」
「罠は?」
「左側の床にあります。避けてください」
「魔物は?」
「この先の広間に三体。右壁沿いに進めば気づかれません」
俺が言うたびに、勇者たちは進んだ。
宝箱を見つけた。
罠を避けた。
魔物との不要な戦闘を減らした。
回復薬の消耗も少ない。
かなり順調だったはずだ。
だが、勇者アルベルトは不満そうだった。
「つまらんな」
「え?」
「魔物を避けてばかりでは、俺の剣が鈍る」
知らんがな。
俺はそう思ったが、口には出さなかった。
雇われの荷物持ちには、沈黙も仕事のうちだ。
やがて俺たちは、迷宮の中層に到達した。
そこには巨大な扉があった。
俺の視界に、赤い線が浮かぶ。
危険。
その先は、今の戦力で進むべきではない。
「待ってください」
俺は言った。
「この先は危険です。引き返した方がいい」
勇者アルベルトが振り返る。
「なぜだ」
「スキルがそう示しています」
「道案内風情が、俺に指図するのか?」
空気が冷えた。
女魔法使いが鼻で笑う。
「外れスキルのくせに、勇者様に意見?」
大盾の男も肩をすくめる。
「荷物だけ持ってりゃいいんだよ」
僧侶だけは少し困った顔をしていたが、何も言わなかった。
勇者アルベルトが俺に近づく。
そして、俺の肩から荷物袋を奪った。
「もういい」
「え?」
「ここまで案内できれば十分だ」
「どういう意味ですか」
「お前はここで解雇だ」
一瞬、意味が分からなかった。
迷宮の中層。
出口までの道は複雑。
周囲には魔物。
そんな場所で、解雇。
「報酬は前金で払った。文句はないな?」
「いや、ありますよ。普通にあります」
「なら、歩く地図らしく自力で帰ればいい」
勇者は笑った。
そして巨大な扉を開けた。
仲間たちも続く。
扉が閉まる寸前、俺は叫んだ。
「その先は本当にまずい! 行くな!」
返事はなかった。
扉が閉じる。
静寂。
俺は一人、迷宮に取り残された。
「……マジかよ」
異世界に来ても、結局これだ。
使えるだけ使われて、いらなくなったら捨てられる。
現代でも。
異世界でも。
俺は配達バッグを握りしめるように、空っぽの肩を掴んだ。
その時だった。
迷宮の奥から、獣の咆哮が響いた。
地面が震える。
壁の魔石灯が揺れる。
俺の視界に、無数の赤い線が走った。
危険。
危険。
危険。
そして、その中に一本だけ――金色の線が浮かんだ。
これまで見たことのない光だった。
俺は息を呑む。
頭の中に、言葉が流れ込んできた。
【目的を設定してください】
「目的……?」
俺は震える声でつぶやいた。
「生きて、ここから出る」
金色の線が、はっきりと輝いた。
【目的:生存脱出】
【最短経路を算出します】
次の瞬間、俺の視界が変わった。
ただの道案内じゃない。
足を置く位置。
息を止めるタイミング。
魔物の視線。
崩れる壁。
落ちている短剣。
全部が、一本のルートとしてつながる。
「……そういうことか」
神様の言葉を思い出す。
たどり着く力。
俺のスキルは、道を示すだけじゃない。
目的に至るための、すべての手順を示す力だ。
遠くで悲鳴が上がった。
勇者たちの声だ。
俺は金色の線を見た。
線は二つに分かれていた。
一つは、俺だけが逃げる道。
もう一つは――誰かを助けてから脱出する道。
「……配達員ってのはな」
俺は床に落ちていた短剣を拾った。
「届け先を見捨てる仕事じゃねぇんだよ」
金色の線を踏む。
迷宮の闇が、俺の前で道に変わった。




