第2話 勇者より先に、女騎士を救う
金色の線は、迷宮の床を這うように伸びていた。
右へ三歩。
左壁に手をつく。
息を止める。
頭を下げる。
俺は、その指示に従った。
直後、頭上を黒い影がかすめた。
「うおっ……!」
振り返ると、天井に巨大な蝙蝠のような魔物が張りついていた。
もし一歩でも遅れていたら、首筋に食いつかれていたに違いない。
だが、不思議と恐怖で足が止まることはなかった。
金色の線が見えている。
そこから外れなければ、生き残れる。
根拠はない。
けれど、妙な確信があった。
【五秒後、右前方より小型魔物接近】
頭の中に、文字のような感覚が流れ込む。
俺は床に落ちていた小石を拾った。
【投擲角度:右上二十七度】
「ゲームかよ……!」
文句を言いながらも、俺は小石を投げた。
カン、と石が壁の突起に当たる。
音に反応した小型魔物が、俺ではなく壁の方へ飛びかかった。
その隙に、俺は走る。
戦っていない。
倒してもいない。
ただ、避けているだけ。
けれど、それで十分だった。
強い必要なんてない。
目的地にたどり着けば勝ちなのだ。
配達だってそうだった。
どれだけ速いバイクに乗っていても、入口を間違えれば遅れる。
どれだけ体力があっても、道順を間違えれば詰む。
大事なのは、正しい順番で進むこと。
今の俺には、それが見えている。
「まずは……勇者たちか」
金色の線は、迷宮の奥へ続いている。
逃げるだけなら、出口へ向かう線もあった。
なのに俺は、奥を選んだ。
馬鹿だとは思う。
さっき捨てられたばかりだ。
あいつらは俺を道具扱いした。
置き去りにした。
助ける義理なんて、どこにもない。
でも。
悲鳴を聞いて、見捨てるほど割り切れなかった。
俺は聖人じゃない。
ただの配達員だ。
届けるべき場所があるなら、足が勝手に動くだけだった。
◇
巨大な扉の向こうは、広い円形の部屋だった。
床には古い魔法陣。
壁には砕けた石像。
中央には、獣がいた。
牛の頭。
人間の胴。
丸太のような腕。
たぶん、ミノタウロスとかいうやつだ。
その足元に、大盾の男が転がっている。
女魔法使いは壁際で震え、僧侶は血を流した勇者に回復魔法をかけようとしていた。
そして勇者アルベルトは、剣を折られていた。
「くそっ! なぜだ! なぜこの階層に迷宮主がいる!」
知らないよ。
だから危険だって言っただろ。
喉まで出かかった言葉を飲み込む。
今は説教の時間じゃない。
【目的:全員を生存状態で部屋外へ退避】
【成功率:二十三パーセント】
「低いな、おい」
冷や汗が背中を伝った。
金色の線は複雑に絡み合っている。
一歩間違えれば死ぬ。
だが、線は確かに存在していた。
成功率二十三パーセント。
つまり、ゼロじゃない。
「こっちだ、牛頭野郎!」
俺は短剣で床の小石を弾き、ミノタウロスの角に当てた。
カン、と軽い音。
ミノタウロスが、ゆっくりとこちらを向く。
赤い目。
鼻息。
殺意。
しまった。
思ったより怖い。
「レンジ!?」
僧侶が俺の名前を呼んだ。
意外だった。
覚えていたのか。
「何をしている! 逃げろ!」
勇者アルベルトが叫ぶ。
さっき置き去りにした人間に言う台詞ではない。
だが、その声には本気の焦りがあった。
俺は笑いそうになった。
なんだ。
完全なクズというわけでもないのか。
「逃げますよ。全員で」
「無理だ! そいつは中層に出る魔物じゃない!」
「だから言ったでしょうが。この先は危険だって」
俺がそう言うと、勇者は悔しそうに顔を歪めた。
ミノタウロスが突進してくる。
金色の線が光る。
俺は半歩だけ右へずれた。
たった半歩。
ミノタウロスの剛腕が、俺の鼻先を通過する。
風圧で髪が揺れた。
「ひっ……!」
情けない声が出た。
怖い。
普通に怖い。
けれど、まだ生きている。
【左後方へ二歩。倒れた槍を蹴る】
俺は指示通りに動いた。
床に落ちていた槍が滑り、ミノタウロスの足元へ転がる。
踏んだ。
巨体が、わずかに傾く。
「今! 盾の人を引っ張れ!」
「え、ええ!」
僧侶が大盾の男に駆け寄る。
「魔法使いさん! 炎じゃなくて煙を出せますか!」
「は、はあ!? 何で私があなたの指示を――」
「死にたくなければやれ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
女魔法使いが肩を震わせる。
だが、すぐに杖を構えた。
「スモーク・ヴェール!」
黒灰色の煙が部屋に広がる。
ミノタウロスの視界が鈍る。
同時に、俺の視界にも金色の線だけが残った。
線は煙の中でも消えない。
むしろ、余計な景色が見えない分だけ分かりやすい。
「勇者様!」
「何だ!」
「折れた剣、投げてください!」
「剣を投げろだと!?」
「プライドと命、どっちが大事ですか!」
勇者が歯を食いしばる。
そして、折れた剣を投げた。
剣はミノタウロスに当たらなかった。
だが、当たらなくていい。
壁の魔石灯に命中する。
砕けた魔石灯が床に落ち、強い光を放った。
ミノタウロスが一瞬、目を閉じる。
【退避可能時間:四秒】
「走れ!」
俺たちは一斉に扉へ向かった。
三秒。
二秒。
一秒。
最後に俺が扉を抜けた瞬間、背後で轟音が響いた。
ミノタウロスの拳が、扉を内側から叩いたのだ。
石扉にひびが入る。
「閉めろ!」
全員で扉を押さえつける。
大盾の男も、半分意識が飛びながら体重をかけた。
扉の向こうで、魔物が暴れている。
だが、数秒後。
音が遠ざかった。
どうやら、部屋の奥へ戻っていったらしい。
全員が、その場に崩れ落ちた。
「……生きてる」
女魔法使いが呆然とつぶやいた。
僧侶は泣きそうな顔で、大盾の男の治療をしている。
勇者アルベルトは、折れた剣の柄を握りしめたまま、俺を見ていた。
「なぜ助けた」
俺は壁にもたれた。
「俺にも分かりません」
「俺は、お前を置いていった」
「そうですね」
「お前を道具扱いした」
「そうですね」
「なら、見捨てればよかっただろう」
俺は息を吐いた。
「見捨てたら、たぶん寝覚めが悪いんで」
「……それだけか?」
「それだけです」
勇者は黙った。
謝罪の言葉はなかった。
けれど、その目からはさっきまでの見下しが消えていた。
代わりにあったのは、理解できないものを見る目。
それでいい。
今さら仲間扱いされても困る。
俺は立ち上がった。
「出口まで案内します。そこで契約終了です」
「待て。報酬は――」
「いりません」
俺は即答した。
「前金はもらいましたし」
「だが……」
「それに、俺はもう荷物持ちじゃない」
そう言うと、勇者は苦い顔をした。
女魔法使いも、大盾の男も、何も言えないようだった。
僧侶だけが、小さく頭を下げる。
「レンジさん……ありがとうございました」
「いえ。早く出ましょう」
金色の線が、出口へ続いている。
俺はそれをなぞるように歩き出した。
◇
迷宮から出た時、空は夕焼けに染まっていた。
外の空気を吸った瞬間、膝から力が抜けそうになった。
生きている。
たったそれだけのことが、こんなにありがたいとは思わなかった。
勇者パーティーは、ギルドへ報告に向かうらしい。
俺は別方向へ歩き出した。
「レンジ」
背後から勇者に呼び止められる。
「何ですか」
「……悪かった」
短い謝罪だった。
だが、勇者にとっては限界だったのかもしれない。
俺は振り返らずに答えた。
「次からは、道案内の話も少しは聞いた方がいいですよ」
それだけ言って、俺は歩き出した。
すると、頭の中に新しい表示が浮かぶ。
【経験条件達成】
【スキル【最短経路】が成長しました】
【新機能:目的分岐表示を解放】
「目的分岐?」
俺がつぶやいた瞬間、視界の端に複数の線が浮かんだ。
宿へ向かう線。
食事を取る線。
ギルドへ報告する線。
そして、もう一本。
街の外れへ向かう金色の線。
【推奨目的:瀕死状態の対象を救助】
「……またかよ」
俺は空を見上げた。
夕日は沈みかけている。
普通なら、今日はもう休むべきだ。
迷宮で死にかけた。
体力も限界。
腹も減っている。
なのに、金色の線はまっすぐ伸びていた。
街の外れ。
廃倉庫区画。
そこに、誰かが倒れている。
俺は頭をかいた。
「配達員の悪い癖だな」
一度届け先を見てしまうと、無視できない。
俺は金色の線へ足を踏み出した。
◇
廃倉庫区画には、人の気配がなかった。
古びた木箱。
崩れた壁。
錆びた鉄扉。
夕闇が濃くなる中、俺は線に従って奥へ進む。
そして見つけた。
倒れている人影。
銀色の髪。
白銀の鎧。
細身の剣。
血に濡れたマント。
女だった。
年は俺と同じくらいか、少し上。
整った顔立ちをしているが、顔色は悪い。
肩から腹にかけて深い傷がある。
「おい、大丈夫か!」
駆け寄ると、彼女はかすかに目を開けた。
澄んだ青い瞳。
その瞳が、俺を警戒するように細くなる。
「……誰だ」
「通りすがりです」
「通りすがりが……こんな場所に来るか」
「俺もそう思います」
彼女は笑おうとして、血を吐いた。
まずい。
これは本当にまずい。
【目的:対象を生存させる】
【最短経路を算出します】
金色の線が、彼女の体から街の中心部へ伸びる。
薬屋。
井戸。
布屋。
そして、教会。
必要な手順が、頭の中に流れ込んでくる。
止血。
応急処置。
搬送。
回復術師への接続。
「動けますか」
「……無理だ」
「ですよね」
俺は彼女の腕を肩に回した。
鎧が重い。
めちゃくちゃ重い。
「ぐっ……!」
「置いていけ」
彼女がかすれた声で言った。
「追手が来る」
「追手?」
「私を助ければ、お前も巻き込まれる」
その言葉と同時に、背後から足音が聞こえた。
複数人。
金属音。
武装している。
【三十秒後、敵性対象接近】
「先に言ってほしかったですね、それ」
「だから……置いていけと……」
俺は彼女を背負った。
重い。
本当に重い。
けれど、不思議と足は前に出た。
「悪いけど」
俺は金色の線を見た。
「一度受けた配送依頼は、キャンセル不可なんで」
彼女が、わずかに目を見開く。
背後で男たちの声がした。
「いたぞ!」
「女騎士だ!」
「逃がすな!」
俺は走り出した。
背中には、瀕死の女騎士。
前方には、複雑に絡み合う街の路地。
そして俺の視界には、ただ一本。
生存へ向かう最短経路が、まばゆく輝いていた。




