むらさきの村②
教会内部は外界よりもずっと暗く、そして瘴気のような冷気が充満していた。ステンドグラスから差し込む光も靄に遮られ、床に落ちる影はいつもよりも長く深い。祭壇は朽ちかけており、その奥に安置された十字架だけが異様な輝きを放っているように見えた。さっきまで聞こえていた金属音は、もっと奥から響いてくる。
「罠かもしれない。慎重に行くぞ。」
ゼロスが低く警告を発しながらも、迷いなく祭壇の後ろにある狭い通路へと足を踏み入れていく。イチルは彼の背中にぴったりと寄り添いながら進む。暗闇に慣れていない目には、彼の姿がぼんやりと浮かび上がるだけだ。
「ここ、地下へ続いているんですね。」
階段は急で壁に手を添えないとバランスを保てないほどだった。ゼロスは右手を壁につき、左手で器用にマントを翻して下りていく。
その時だった。
チリン……
二人が階段の中腹に差し掛かったあたりで、奥から鈴のような音がした。微かだったけれど、この静寂の中で確かに響いた。
チリン……
「誰かいますか!?」
思わず叫んだ声は洞窟のような空間に反響し、余計に空虚さを強調しただけだった。返事はない。
「静かに。」
ゼロスの声が一段と低くなる。彼の背中の緊張感がこちらにも伝わってきた。
さらに十段ほど下りた先にあったのは、石造りの簡素な扉だった。鍵穴はあるが錆び付き、容易に押し開けられるだろう。その向こうからこそ、あの鈴の音が周期的に聞こえてくる。
ゼロスが扉に手をかけようとした瞬間、突然イチルの左手首が熱くなった。ブレスレットが微かに震えている。
「! ゼロスさん……ブレスレットが!」
「……感じ取ってるのかもしれねぇな。お前の微々たる魔力と俺の魔力が共鳴してるんだろう。」
彼は短く答えると、ゆっくりと扉を押し開いた。
重い音と共に開かれた扉の向こうに広がっていたのは天井の一部が崩落し星空が覗く空間だった。そしてその中央には、巨大な水晶のような柱がそびえ立っていた。その表面は薄紫色に発光しており、周期的に明滅を繰り返している。チリン……という音は、柱の根本から聞こえていた。
柱の根本には小さな鐘楼のような装置があり、そこから透明な鎖が伸びていた。鎖の先端には鳥かごのようなものがあり、その中には一枚の羽根が閉じ込められている。羽根は金色に輝き、それが発光し振動する度に鐘を鳴らし鈴のような音を立てていた。
「あれが……星屑の欠片?」
私は息を飲んだ。目の前の光景が信じられない。あまりにも幻想的で美しいけれど、同時に危険なものだと本能が告げていた。
ゼロスが一歩踏み出す。
「星屑の欠片は姿をも変えるってことか…。」
彼の言葉通り、柱が放つ光は美しくもあり威圧的でもあった。部屋の温度が一気に下がり、息が詰まるような重圧を感じる。
「どうやって取り出せば……」
その時、ふと気付いた。金色の羽根の下に、古びた羊皮紙のようなものが置かれている。ゼロスもそれに気付き、目を細めた。
「……封印に関するものかもしれないな。」
彼は躊躇なく羽根の方へ近づき始めた。その動きは慎重そのもので、一挙一動に神経が注がれているのがわかる。
イチルも意を決して彼の後に続いた。羽根に近づくにつれて、その美しさと禍々しさの両方が増幅していく。左手首のブレスレットの熱も高まっていく。
「……これは、」
ゼロスさんが羽根の下から羊皮紙を拾い上げた。彼は一瞥し、眉をひそめた。
「古代文字だな…俺にはさっぱりだ。」
彼の言葉が終わるか否かというタイミングで、周囲の空気が再び変わり始めた。柱の輝きが一際強くなり、鎖が激しく揺れる。チリンという音が狂ったように早鐘を打ち始めたのだ。
「まずい……!」
ゼロスが叫んだその瞬間、部屋の隅から紫色の靄が生き物のように噴出してきた。それは蛇のように鎌首をもたげ、私たち目掛けて襲いかかってくる!
「伏せろ!」
ゼロスが叫ぶのとほぼ同時、イチルは反射的に身を屈めた。すぐ頭上を黒い風のようなものが掠めていくのが感じられた。
「この靄……意思を持ってるのか!」
ゼロスが羽根を庇うように立ち塞がり、右手を掲げる。
「ちっ……今は万全じゃねぇってのに!」
掲げた右手に黒い稲妻のようなものが走り、靄を薙ぎ払う。だが靄はすぐに再生し、再び攻撃の矛先を向けてきた。
「ゼロスさん!」
イチルは慌てて叫ぶ。彼はイチルに目線だけ送ると、冷静に命じた。
「下がれ! アイツを引きつけといてやる! その隙にお前が何とかしろ!」
「何とかって……!」
「あの羽根だ! お前の魔力と俺のその魔力があれば引き剥がせるかもしれない! 怯むな、行け!」
彼の声には有無を言わせぬ迫力があった。イチルは恐怖を振り払い、彼が作り出した隙を突いて駆け出した。金色の羽根を目指して一直線に。
靄がイチルを追ってくるのがわかる。背後でゼロスが靄を迎え撃つ音が聞こえる。彼の力は封印されているとはいえ、元は魔王、依然として人智を超えたものだ。それでも無理をしていることは伝わってくる。
(ゼロスさんが時間を稼いでくれている……! ここで躊躇ったら全部無駄になる!)
イチルは羽根の前で立ち尽くした。間近で見る羽根の光は息を呑むほど美しく、そして圧倒的な存在感だった。震える手を伸ばす。
「お願い……!」
祈るように呟きながら、イチルは金色の羽根に触れた。その瞬間――全身に電流が走ったかのような衝撃が走った! 羽根から強い反発力が発せられ、イチルの手を弾き飛ばそうとすると同時に、左手首のブレスレットが灼熱し始めた。
(これが……星屑の欠片の力……!)
イチルの魔力とブレスレットに残されたゼロスの魔力が共鳴している。羽根が放つ拒絶の力と、ブレスレットを通して流れる守護の力がせめぎ合う。
「ぐぅっ……!」
痛みと衝撃に耐えながら、イチルはさらに強く羽根を握りしめた。
「うぁあっ!」
絶叫と共に、ありったけの魔力を左手に集中させた。手首のブレスレットが激しく輝き、羽根との反発を打ち破ろうとする。
すると――不思議なことが起きた。
チリン……
激しかった金属音が、一瞬だけ穏やかな旋律に変わった。まるで羽根が抵抗を緩めたかのようだ。その隙を逃さず、イチルは思い切り羽根を引き抜いた!
「やった……!」
羽根が抜けた瞬間、周囲の靄が急速に薄れていった。ゼロスが迎え撃っていた黒い風も力を失い、霧散していく。教会全体を覆っていた重苦しい空気も消え、代わりに新鮮な空気が流れ込んできた。
「はぁ……はぁ……!」
イチルはその場に膝をつく。凄まじい脱力感と疲労が一気に押し寄せた。しかし、手の中にしっかりと金色の羽根――もとい星屑の欠片の一つが収まっているのを見て、思わず笑みがこぼれた。
「やったな。」
いつの間にか隣に立っていたゼロスが、短くそう言った。彼は息を切らしているものの、怪我はなさそうだ。
「ゼロスさん、 助かりました…。」
「……貸しにしておく。」
彼はそっぽを向くと、イチルの手のひらの上の羽根をじっと見つめた。赤い瞳が、微かに満足そうに細められた気がした。
「これが星屑の欠片か……思った以上に厄介な代物だ。だが、なぜかお前の魔力と共鳴してやがる。」
ゼロスはイチルの左手首のブレスレットと羽根を交互に見比べた。
「これで一つ、封印できるな。」
「はい……! ゼロスさんのおかげです。」
イチルは心からの感謝を込めて言った。彼は「当然だ」とでも言うように鼻を鳴らし、部屋を出ようと歩き出した。
「次だ。」
「はい!」
俺の完全復活のために急ぐぞ、という言葉は聞かなかったことにしたイチルは羽根を大切に懐に入れ、彼の背中を追った。左手首のブレスレットはまだ温かい。最初の試練を乗り越えたという手応えと、これから待ち受ける困難への予感。それらが入り混じった複雑な感情を抱きながら、イチル達は教会を後にした。
紫の靄は完全に晴れ、夕暮れの美しい光が村に差し込んでいた。人形のようだった村人たちも、もとの姿に戻り始めていた。遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。
その安寧を守るため、そして、イチルとゼロス、それぞれの目的を果たすために二人の旅は、新たな星屑の欠片を求めて再び動き出すのであった。次の異変は、一体どこで彼女たちを待っているのだろう。
空には、もうひとつの星屑が微かに煌めいているような気がした。




