第三話「奇跡のない世界」
リメイク版公開中!
故郷の村に帰り着いたのは、王都を出て十日目のことだった。
「ただいま……」
小さな村。人口は百人ほど。リゼルが生まれ育った場所。
五年前、聖女として覚醒してからは一度も帰っていなかった。「聖女は俗世から離れるべき」という枢機卿の言葉に従って。
「リゼル!? リゼルなの!?」
村の入り口で、一人の女性が駆け寄ってきた。リゼルの幼馴染、エマだ。
「エマ……!」
「本当にリゼルだわ! 噂は聞いてたけど、まさか本当に帰ってくるなんて!」
二人は抱き合った。エマの体温が温かい。
「聞いたわよ、聖女を辞めたって。大丈夫なの? 王都の人たちに追われたりしない?」
「分からない。でも、もうどうでもいいの」
リゼルは笑った。
「私、帰りたかったから」
*
村はずれの空き家──リゼルの生家──に落ち着くと、エマが色々と世話を焼いてくれた。
「とりあえず、これ使って。毛布と食料」
「ありがとう」
「村長には私から話しとくわ。多分、匿ってくれると思う」
「迷惑かけてごめんね」
「何言ってんの。あんたは村の誇りなんだから」
エマは笑顔で言った。でも、その笑顔の裏に少しの不安が見えた。
「ねえ、リゼル」
「何?」
「奇跡が起きなくなったの、やっぱりあんたが辞めたから?」
リゼルは頷いた。
「多分。聖女の力は、私にしか使えないから」
「そっか……」
エマは複雑な表情をした。
「実は、うちの村も困ってるの。井戸水が濁っちゃって。いつもなら聖堂の神官が浄化の祝福をかけてくれるんだけど……」
「神官でも、奇跡が使えなくなってるんだ」
「うん。それだけじゃない。病気の人も治らないし、畑の祝福も切れてる」
罪悪感がまた襲ってくる。
でも、リゼルは首を振った。
「ごめん、エマ。でも、私はもう……」
「分かってる」
エマは優しく言った。
「あんたは十分頑張ったよ。だから、休みなさい」
「エマ……」
「村のことは、私たちで何とかする。あんたは、ゆっくり休んで」
涙が溢れそうになった。
*
村での生活は、静かだった。
朝起きて、井戸で水を汲む。畑を手伝う。夕方になったら、エマの家でお茶を飲む。
何でもない日常。
でも、リゼルにとっては奇跡のような時間だった。
「あー、気持ちいい」
ある日の午後、リゼルは村の丘で寝転んでいた。青空が広がっている。
「五年ぶりだな、こんなふうにぼーっとするの」
聖女時代は、一瞬たりとも「何もしない時間」がなかった。常に誰かのために祈り、奇跡を起こし、笑顔を作らなければならなかった。
「これが、普通の人の生活……」
幸せだった。
*
でも、村の人々の視線は複雑だった。
「あれが聖女様だった子か」
「奇跡を辞めちゃうなんて、勿体ない」
「いや、でも無理させちゃいけないだろ」
「でも困ってるのは事実だしな……」
リゼルは村を歩く時、その視線を感じていた。
責めているわけではない。でも、期待と失望が入り混じった複雑な感情。
「仕方ないよね」
リゼルは独り言ちた。
ある日、村の子供が怪我をした。
「痛いよー!」
膝を擦りむいて泣いている。母親が慌てて駆け寄る。
「大丈夫、大丈夫だからね」
「聖女様に治してもらえば……あ」
母親はリゼルに気づいて、気まずそうに目を逸らした。
「すみません、リゼルさん。何でもないです」
「……」
リゼルは黙って去った。
胸が痛かった。でも、振り返らなかった。
*
「リゼル、元気ないね」
夕方、エマの家でお茶を飲んでいる時に言われた。
「そう?」
「うん。村の人たちの反応、気にしてるでしょ」
「……バレてる?」
「当たり前よ。幼馴染なめんな」
エマは笑った。
「でもね、みんな分かってるよ。あんたが悪いわけじゃないって」
「本当に?」
「本当よ。ただ、急に奇跡がなくなっちゃったから、戸惑ってるだけ」
エマはカップを置いて言った。
「実はね、村で話し合いがあったの。井戸水の浄化、どうするかって」
「それで?」
「隣村から水を分けてもらうことになった。それと、井戸を新しく掘り直す」
「え……」
「奇跡に頼らない方法、考えてるのよ。時間はかかるけどね」
リゼルは驚いた。
「みんな、そんなこと……」
「だって仕方ないじゃん。奇跡がないなら、自分たちでやるしかない」
エマは当然のように言った。
「それに、考えてみれば奇跡に頼りすぎてたのかもね。自分たちで何とかする力、忘れてたのかも」
「エマ……」
「だから、リゼル。あんたは何も気にしないで。あんたのおかげで、私たち自立できるかもしれないんだから」
涙が溢れた。
「ありがとう……」
「泣くなよ。お茶が塩辛くなるだろ」
二人は笑い合った。
*
その夜、リゼルは村の教会を訪れた。
小さな礼拝堂。懐かしい場所。
五年前、ここで神の声を聞いた。
「神様……私、少し幸せです」
祭壇に向かって呟く。
「奇跡を失った世界は、確かに不便になりました。でも……人々は、自分たちの力で歩き始めてる」
リゼルは微笑んだ。
「これが、あなたが望んだことなのかな」
答えは返ってこない。でも、それでいいと思えた。
*
しかし、平穏な日々は長くは続かなかった。
村に帰って一週間後の朝。
「リゼル! 大変!」
エマが血相を変えて飛び込んできた。
「王都から騎士団が! あんたを迎えに来たって!」
「え……?」
リゼルの顔が青ざめた。
「村長が今、説得してるけど……多分、時間の問題よ」
「そんな……」
逃げなきゃ。でも、どこへ?
「リゼル、落ち着いて。裏口から森に逃げて。私が時間稼ぎする」
「でも、エマまで巻き込むわけには……」
「いいから! 早く!」
エマに押されて、リゼルは裏口へ向かった。
でも──。
「待ちなさい、リゼル様」
裏口に、一人の少女が立っていた。
「ミナ……!」
補佐官のミナ。リゼルの元部下。
「見つけましたよ、リゼル様。さあ、一緒に王都へ戻りましょう」
「嫌よ……私は、もう戻らない」
「リゼル様!」
ミナの声が震えた。
「あなたがいなくなって、どれだけの人が困っていると思ってるんですか!」
「分かってる……でも……」
「分かってないです!」
ミナは涙を浮かべて叫んだ。
「王都では疫病が広がってます! 治癒の奇跡がないから、何百人も死んでいるんです!」
「っ……!」
「辺境では干ばつで作物が全滅しました! 豊穣の祝福がないから、来年は飢饉になります!」
「やめて……」
「これ全部、あなたの責任なんですよ!?」
リゼルは膝をついた。
「私の……責任……」
「そうです。だから、戻ってください。お願いします」
ミナが手を差し伸べる。
でも──。
「待って」
エマがリゼルの前に立ちはだかった。
「あんた、何様のつもり? リゼルを責める権利なんてないでしょ」
「関係ない人は黙っていてください」
「関係ないですって!? リゼルは私の友達よ! あんたたちが壊した人間を、また壊そうとしてるだけじゃない!」
「壊した……?」
ミナは呆然とした。
「リゼルがどれだけ追い詰められてたか、知ってるの? 毎日毎日、休みもなく奇跡を起こし続けて、倒れるまで働かされて!」
「それは……」
「それは聖女の務めだって? 冗談じゃないわ。リゼルは人間よ。神様の道具じゃない!」
エマの言葉に、ミナは言葉を失った。
「私は……そんなつもりじゃ……」
「でもあんたは、リゼルを王都に連れ戻そうとしてる。またあの地獄に戻そうとしてる」
リゼルが立ち上がった。
「エマ、もういい」
「リゼル……」
「ミナ」
リゼルはミナを真っ直ぐ見た。
「私は、戻らない」
「リゼル様……」
「確かに、私が辞めたせいで困ってる人はいる。それは申し訳ないと思ってる」
リゼルの声は震えていたが、確固としていた。
「でも、私はもう限界だったの。このまま続けたら、私は壊れてた」
「それでも、人々の命が……!」
「私の命も、同じくらい大切よ」
ミナは息を呑んだ。
「私は……私を救うために、聖女を辞めたの」
「そんな……そんな身勝手な……」
「身勝手でいいわ」
リゼルは涙を拭った。
「私は、人間として生きる。それだけよ」
*
長い沈黙の後、ミナは項垂れた。
「分かりました……」
「ミナ……」
「今日は、諦めます。でも──」
ミナは顔を上げた。その目には、決意が宿っていた。
「私は、何度でも来ます。あなたが戻ってくれるまで」
「どうして、そこまで……」
「だって……」
ミナの声が震えた。
「リゼル様がいなくなってから、私たちは何もできないんです。奇跡を起こせるのは、あなただけなんです」
「それは……」
「だから、お願いします。いつか……いつか、戻ってきてください」
ミナは深く頭を下げて、去っていった。
*
騎士団が村を離れた後、リゼルは村はずれの丘に座っていた。
「私は……間違ってないよね」
エマが隣に座る。
「間違ってないわよ」
「でも、ミナの言う通り、人が死んでる」
「それはあんたのせいじゃない」
「でも……」
「リゼル」
エマはリゼルの手を握った。
「あんたが一人で全てを背負う必要はないの。世界は、あんただけのものじゃない」
「……」
「人々は、自分たちの力で生きていかなきゃいけない。奇跡に頼るんじゃなくて」
リゼルは空を見上げた。
「そうだね……」
「そうよ。だから、あんたは休みなさい。罪悪感なんて捨てて」
夕日が二人を照らしていた。
リゼルの心は、まだ揺れていた。
でも──少しずつ、前に進んでいる気がした。
(第三話・終)