第一話「聖女はもう疲れました」
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王都の中心に聳え立つ大聖堂。その最上階にある聖女の執務室で、リゼル・アルティナは三日ぶりにペンを置いた。
「……もう、限界かもしれない」
白い聖女衣に包まれた華奢な体は、疲労で震えていた。机の上には山積みの「奇跡申請書」。貴族の病気治癒、不作の畑への祝福、王太子の武運祈願──。
聖女になって五年。リゼルは一度も休んだことがない。
「リゼル様、次の予定です」
執務室の扉が開き、補佐官のミナが申し訳なさそうに顔を覗かせる。彼女の手には、また新しい書類の束。
「午後二時、枢機卿との面談。三時、辺境伯家への治癒の儀。五時、王城での祝福式。それから──」
「待って」
リゼルは掠れた声で言った。
「今日はもう、何も入れないで」
「ですが、枢機卿様が『聖女の予定は神のご意志より優先されるべきではない』と……」
「神のご意志、ね」
リゼルは自嘲気味に笑った。窓の外に広がる王都の街並み。人々は聖女の奇跡を当然のものとして生きている。
朝起きて、神に祈りを捧げる。病気になれば、聖女に治してもらう。畑が不作なら、聖女に祝福を頼む。
まるで──便利な道具のように。
「リゼル様?」
ミナの心配そうな声が遠くに聞こえる。視界が霞んだ。
ああ、これは──。
リゼルの意識が途切れる直前、彼女は自分が床に倒れる音を聞いた。
*
「目を覚まされましたか、聖女様」
白い天井。消毒薬の匂い。聖堂付きの医療室だと、すぐに分かった。
「どのくらい……」
「半日です。過労による失神と診断されました」
ベッドの脇には、枢機卿エルヴィン・グラントが立っていた。六十過ぎの威厳ある老人。聖堂の最高責任者であり、リゼルの直属の上司だ。
「ご心配をおかけしました」
リゼルは上体を起こそうとして、激しい頭痛に顔を歪めた。
「無理をなさらずに。しかし、困りましたな」
枢機卿の言葉に、リゼルは違和感を覚えた。「困った」──彼が心配しているのは、リゼルの体調ではない。
「明日の王族への祝福式、それから来週の豊穣祭。あなたにしか行えない儀式が山積みです」
「……そうですね」
「聖女様。あなたは神に選ばれた特別な存在。その責任の重さは、私などには計り知れません」
枢機卿は優しい口調で続ける。だが、その言葉の裏に隠された意味を、リゼルは痛いほど理解していた。
──だから、休むな。
──お前の体調など、どうでもいい。
──奇跡を起こし続けろ。
「分かっています」
リゼルは言った。もう、何度目かも分からない台詞。
「必ず、務めを果たします」
「それでこそ聖女様だ。では、二日後には復帰していただけますね?」
「はい」
枢機卿が満足そうに部屋を出ていく。扉が閉まった瞬間、リゼルは枕に顔を埋めた。
涙は出なかった。もう、涙を流す気力さえ残っていない。
「……私は、何のために生きているんだろう」
誰にも聞かれない独り言。
リゼルは五年前、突然「聖女」として覚醒した。村の小さな教会で祈りを捧げていた時、体が光に包まれ、神の声が聞こえたのだ。
『汝、選ばれし者なり。その力を以て、人々を救いなさい』
最初は嬉しかった。自分が特別な存在として認められた。困っている人を助けられる。
でも、現実は違った。
奇跡は「業務」だった。申請書を処理し、スケジュールをこなし、評価され、要求される。
感謝されることもある。でも、それ以上に「もっと」を求められる。
「次はいつ来てくれるんですか?」
「もっと強い祝福を」
「聖女なんだから、これくらい当然でしょう?」
いつからか、奇跡は「ありがたいもの」ではなく「当たり前のサービス」になっていた。
*
翌日、リゼルは医療室を抜け出した。
まだ頭痛は残っていたが、このまま休んでいても結局は仕事に戻される。それなら──。
執務室に戻ったリゼルは、引き出しから一枚の羊皮紙を取り出した。
「退職届……」
半年前に書いて、でも出せなかった書類。
『聖女リゼル・アルティナは、本日をもって聖女の職を辞します』
シンプルな一文。でも、この紙には彼女の全てが詰まっていた。
「出しちゃおうかな」
呟いた瞬間、背後で声がした。
「リゼル様! まだ安静にしていなきゃ!」
ミナだった。彼女は息を切らしながら駆け寄ってくる。
「大丈夫、もう平気だから」
「平気なわけないじゃないですか! 倒れてまだ一日なのに!」
ミナは十九歳。リゼルより三つ年下の補佐官だ。真面目で優しくて、いつもリゼルを心配してくれる。
「ねえ、ミナ」
「はい?」
「もし私が、聖女を辞めたらどう思う?」
ミナの顔が強張った。
「何を……そんなこと、できるわけ……」
「できないよね」
リゼルは笑った。
「聖女は神に選ばれた存在。辞めるなんて、神への冒涜。それに、私が辞めたら奇跡が起きなくなる。困る人がたくさん出る」
「リゼル様……」
「でもね、ミナ。もう本当に、限界なの」
リゼルの声が震えた。
「五年間、一日も休まず奇跡を起こし続けた。朝から晩まで祈って、癒して、祝福して。私の人生は全部、他人のために使われた」
「それは……」
「私だって、普通の女の子みたいに生きたかった。友達とお茶を飲んだり、好きな本を読んだり、恋をしたり」
涙が溢れた。ミナが驚いて、リゼルを抱きしめる。
「ごめんなさい、リゼル様。私、気づけなくて……」
「ミナは悪くない。誰も悪くない。ただ、システムが間違ってるだけ」
リゼルはミナの腕の中で言った。
「聖女は、奴隷じゃない」
*
その夜。リゼルは決意した。
執務室の机に、退職届を置く。インク壺の重しを乗せて、風で飛ばないようにする。
聖女衣を脱ぎ、クローゼットにしまう。代わりに、普通の旅装束を着た。
「これで、いいんだよね」
窓の外には満月。
リゼルは大聖堂を後にした。誰にも見つからないように、裏口から。
王都の門を抜ける時、門番が不思議そうに彼女を見た。でも、聖女衣を着ていないリゼルを、誰も聖女だとは気づかない。
「どちらへ?」
「田舎に、帰ります」
「お気をつけて」
門が開く。リゼルは振り返らずに歩き出した。
五年ぶりの自由。
でも、その代償がどれほど大きいか、まだ彼女は知らない。
──王都を出た瞬間、空から雨が降り始めた。
そして、その雨は三日三晩、止まることがなかった。
*
翌朝、大聖堂は大騒ぎになっていた。
「聖女様が消えた!?」
「退職届がある! これは一体……!」
枢機卿エルヴィンは青ざめた顔で、リゼルの執務室を見回した。
机の上には、確かに退職届。
『私はもう、聖女としての務めを果たせません。長い間、ありがとうございました』
丁寧な文字。でも、その裏には強い意志が感じられる。
「探せ! 何としても聖女様を連れ戻すのだ!」
騎士団が動き出す。でも──。
「枢機卿様、大変です!」
神官が血相を変えて飛び込んできた。
「南の村で疫病が! でも、治癒の奇跡が効きません!」
「何だと!?」
「それだけではありません! 豊穣の祝福も、浄化の儀式も、全て──全ての奇跡が、起きなくなっています!」
枢機卿は呆然とした。
聖女が去った世界。
それは──奇跡のない世界。
「まさか……聖女様がいなくなったら、神の加護まで消えるというのか……!?」
大聖堂に、絶望の声が響いた。
一方、田舎道を歩くリゼルは、降り続く雨の中で小さく微笑んだ。
「ごめんなさい。でも、もう戻れない」
奇跡が消えた世界。
それでも彼女は、自分の人生を取り戻すために歩き続けた。
(第一話・終)




