夏便り、海より(四)
美瑚は卓上の二枚の手巾と、翡翠の髪留めを見比べた。
「私たちには手巾で、水織ちゃんには髪留めなんだね」
「贈る理由が異なるのだから、品が違うのは当然だろう。二人への手巾は旅の土産。こちらは、海蘭へ向かう前に背中を押してもらったことへの礼だ」
「でも、髪留めは特別な人に贈るものなんでしょう?」
「だから、それを妙な意味に取られぬか、二人に尋ねているのだ」
「別のものにすればいいんじゃない?」
あっさりと示された解決策に、小聿は言葉を詰まらせた。
「手巾やお菓子なら、変な意味には取られないよ」
「……それは、そう……だが……」
「では、別の品になさいますか?」
星那にも尋ねられ、小聿は再び小箱へ視線を落とした。
深い緑の翡翠を見つめれば、その向こうに、陽光を受けて鮮やかに煌めく赤い髪が浮かぶ。これを見つけた瞬間、水織に似合うと思った。その思いだけは、今も少しも変わっていない。
「……いや」
小聿は小さく首を振った。
「これを、水織どのに渡したい」
「ほら。やっぱり水織ちゃんは特別なんだ」
「なぜ、そうなる」
「だって、誤解されるかもしれないのに、ほかのものには替えたくないんでしょう?」
「それは……これが、最も水織どのに似合うと思ったからで……」
「小聿は、水織ちゃんのことが好きなの?」
「違う!俺はただ――」
言葉が、不自然なところで途切れた。
美瑚と星那が、揃って目を瞬かせる。
小聿は口を開いたまま固まり、やがて何事もなかったように茶杯へ視線を落とした。
「……今、小聿、『俺』って言った?」
「言っていない」
「言ったよ」
「聞き間違いだ」
「いいえ。わたくしにも、そのように聞こえました」
「星那どのまで……」
小聿は気まずそうに目を伏せ、すっかり減ってしまった茉莉花茶へ口をつけた。
「もう一度言ってみて」
「断る」
「どうして?変ではなかったよ」
「そういう問題ではない」
「海蘭では『俺』って言っていたの?」
小聿は観念したように息を吐いた。
「いや。海蘭で知り合った御仁に、親しい者の前ではもう少し言葉を緩めてみてはどうかと勧められたのだ。今は、水鏡殿にいる時だけ……試している」
「じゃあ、美瑚たちの前でも『俺』でいいじゃない」
「なぜ、そうなる」
「私たち、親しくないの?」
「…………」
小聿は返答に窮したように眉を寄せた。
「そういう言い方は狡いよ、美瑚」
「では、親しいのですね?」
星那まで微笑みながら尋ねる。
「……もちろん、二人とも大切な友人だよ」
「だったら、決まりね」
「何も決まっていない」
きっぱりと言い返した小聿を、美瑚はしばらく楽しそうに見つめていた。
やがて、その視線を再び卓上の髪留めへ落とすと、何かを閃いたように満面の笑みを浮かべた。
「ねぇ、小聿。私、いいこと思いついたっ!」
「……いいこと?」
小聿は訝しげに眉を寄せる。
この友の言う『いいこと』が、本当によいことであるとは到底思えなかった。
少なくとも、小聿にとっては――。
***
「できないっ!そんなこと、俺にはできないっ!」
水鏡殿の居室に、小聿の狼狽した声が響き渡った。
「また『俺』って言った」
「今はそこではない!」
美瑚の指摘に、小聿はすかさず言い返す。
「えーっ、いいと思うんだけどなぁ。ねぇ、星那?」
「はい。わたくしも、素敵なご提案だと思います」
星那がにこにこと笑いながら頷くのを見て、美瑚はますます勢いづいた。
「ほらぁ!女子二人が言うんだから、従った方がいいわよ」
「無理なものは無理だっ!」
それでも、小聿は頑として首を横に振る。
その頑なな様子に、美瑚はやれやれとでも言いたげな顔をした。
「小聿って、意外とへたれね」
「へ……へたれ……」
思いも寄らぬ言葉を投げつけられ、小聿の形のよい唇がわなわなと震える。
「俺のどこがへたれだというのだ」
「だって、そんなに難しいことじゃないのに、できないって言ってるでしょう?」
「難しいか否かの問題ではない!水織どのがどう思うかの話だろう?突然、そんな……」
美瑚の提案を実行している自分を想像し、小聿の白雪のような頬がみるみるうちに赤くなる。
「何も、いきなりやれって言ってるんじゃないのよ。先に、それをしてもいいか聞いて、『いい』って言われたらやればいいでしょう?微妙な顔をされたら、その時はやめればいいじゃない」
「……聞く……?」
聞く。
水織に。
それを、自分がしてもよいか――。
「……無理」
「聞くのも?」
「聞くのもっ!」
美瑚は、ははーん、と得心したように目を細めた。
「断られるのが怖いんだ」
「違う」
「じゃあ、何が怖いの?」
「怖くなどない!ただ、そのようなことを尋ねれば、俺が妙なことを考えていると思われるかもしれないだろう」
「妙なことを考えているの?」
「考えていない!」
「だったら、堂々と聞けばいいじゃない」
「そなたは先ほどから、なぜ俺の逃げ道を一つずつ塞いでいくのだ」
小聿が恨めしげに睨みつけても、美瑚はどこ吹く風といった顔で緑豆糕を一つ摘まんだ。その隣では、星那も口元を手で覆い、肩を小さく震わせていた。
「だって、小聿はそれを水織ちゃんに渡したいんでしょう?」
「……渡したい。でも、そんなことしなくとも……」
「その方が、想いは伝わるよ。それに、水織ちゃんに喜んでもらいたいんでしょう?」
「それは、もちろん……」
「じゃあ、やってみればいいのに」
あまりに簡単なことのように美瑚は言う。
小聿は反論しようと口を開き、けれど言葉を見つけられないまま、再び小箱の中の翡翠へ視線を落とした。
「わたくしも、水織さまはきっとお喜びになると思います」
星那が、励ますように柔らかく微笑む。
「……考えておく」
小聿がようやく絞り出した答えに、美瑚は満足そうに頷いた。
「うん。そうして。それから、次に会う時は、最初から『俺』って言ってね」
「それとこれとは別の話だろう」
「別じゃないよ。私たちは、小聿の大切な友人なんでしょう?」
「また、その言い方を……」
小聿は困ったように眉を寄せた。
「私がどのような言葉で話すかは、私が決めることだよ」
「また『私』に戻ってる」
「放っておいてくれ」
「じゃあ、私たちの前で『俺』って言うかどうかも、小聿が決めるの?」
「当たり前だろう。俺がどのように話すかは、俺が決める」
そこまで言って、小聿は、はっと口を閉ざした。
美瑚の顔に、今度こそ勝ち誇ったような笑みが広がる。
「うん。決まりね!」
「だから、何も決まっていない!」
小聿の抗議に、美瑚は声を立てて笑った。星那も堪えきれなくなったように口元を覆い、小さく笑い声を漏らす。
小聿はしばらく不満げに二人を見つめていたが、やがて諦めたように息を吐き、自身も小さく笑みをこぼした。
開け放たれた窓の向こうでは、真昼から少しも衰えぬ蝉時雨が降り注いでいる。
けれど、その夏の騒がしさにも負けず、水鏡殿の居室には、三人の明るい笑い声がいつまでも響いていた。




