エピローグ
退院後は、何かと慌ただしかった。
藍田さんという後見人を失った今、俺たちがこれからどこで、誰と暮らしていくのか。
当然、その話を避けて通ることはできなかった。
櫻井さんは、俺たちを引き取ると申し出てくれた。
葉月は、もちろん賛成だった。
『柚紀が一緒なら、私はいいよ』
そう言ってくれた。
けれど、肝心の俺だけが、まだ答えを出せずにいた。
葉月は基本、人を疑わない。
だからこそ、もし俺の選択が間違っていて、葉月を辛い目に遭わせてしまったらと思うと、簡単に頷くことができなかった。
あれほど俺たちのことを想ってくれているように見えた藍田さんですら、腹の底で何を考えていたのか、俺は一切気づけなかった。
その藍田さんを、何も知らなかったとはいえ慕っていた櫻井さんだって、本当は同じなのかもしれない。
なんて。
疑い始めれば、キリがない。
本音を言えば、この選択そのものから逃げ出したかった。
(まるで、離婚する両親に『どっちについていくの?』って聞かれてる気分だ)
当の両親など、とっくにいない。
それでも、ありきたりな例えをするなら、そんなところだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えていた、そのときだった。
――コンコン。
煮え切らない思考を断ち切るように、部屋の扉を叩く音がした。
顔を上げると、扉の向こうから続けざまに声がする。
「柚紀、櫻井だ」
「……はい。今、開けます」
どんな顔をすればいいのか分からないまま、重い指先で扉のノブを回す。
扉を開けると、そこには廊下の壁に頭を預けた櫻井さんが、すっかり待ちくたびれたような顔で立っていた。
「で。答えは決まったか?」
「…………」
何を口にしようにも喉の奥につっかえたままの言葉の代わりに、自分の足元に視線を落とす。
いつものように軽口を叩く余裕さえない俺を見て、櫻井さんは煩わしそうに艶のある髪をかきむしった。
そして、大きく息を吐く。
「……分かった。確かに、お前に判断を任せるには重すぎた」
予想外の言葉に、思わず顔をあげる。
「選択には、責任が伴うからな。だから、あえて言う」
櫻井さんの視線が、まっすぐにこちらを捉える。
「俺のもとへ来い」
「へ……?」
「確かに、お前の過去を考えれば、人を信じられなくなる気持ちは分かる」
甘い慰めではなかった。
「これから先だって、裏切られることはあるだろう」
むしろ、容赦のない正論だった。
「ただ」
それでも、櫻井さんは目を逸らさない。
「俺だけは、信じてよかったと思わせてやる」
その言葉に、息を呑んだ。
「お前が今まで見てきた世界が、裏切りばかりの世界だったなら」
俺の肩を掴む櫻井さんの手に、わずかに力がこもる。
「今度は俺が、誰かを信じてもいいと思える世界を見せてやる」
いつもの櫻井さんとは違った。
大人として、俺たちを引き受ける。
その責任を自分が背負うのだと、言葉だけではなく、その眼差しそのものが告げていた。
「だから、俺のもとへ来い」
もう一度。
今度は静かに、けれどはっきりと言った。
なぜだろう。
その瞬間、頬を一筋、涙が伝った。
ずっと、本当は誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。
何かを選ぶたびに、
自分で選んだでしょう?
そう言われることが、怖かった。
選べるような状況でもないのに、それでも選ばなければならない。
けれども、その責任だけはしっかり自分に返ってくる。
逃げたかった。
でも、櫻井さんは違った。
ここへ来い。
その先で何かあれば、自分が責任を持つと言ってくれた。
子どもが、大人に責任を預けたっていい。
その覚悟に、どうしようもなく飛び込んでみたくなった。
「……はい」
小さく。
けれど今度は、はっきりと頷いた。
こうして俺と葉月は、正式に櫻井さんの養子として引き取られることになった。
◇ ◇ ◇
一方、N.Tの三人は少年院を出たあと、櫻井さんが紹介した信頼できる児童養護施設で、三人一緒に暮らしていた。
そして今日は、真琴が十八歳を迎え、その施設を出る日だった。
「真琴、元気でね」
「ありがとうございます。長い間、お世話になりました」
職員や仲間たちに深々と頭を下げ、皆から別れを惜しまれている様子を、燐は二階の部屋の窓からじっと眺めていた。
隣のソファーで本を読んでいた唯は、ついに口を開く。
「お前、いいのか?」
「…………何が」
「真琴に告白。しないの?」
「おまっ……! 言えるわけないだろ!」
「ふーん。あ、そ」
唯はわざとらしく肩をすくめる。
サイドテーブルに本を置き、燐の隣に立つと、同じように窓の向こうを見つめた。
「真琴、この街を離れて遠くに行くらしいぞ」
「……だから?」
「結構、美人だよな」
「…………」
「事情を知ってるお前は遠慮するかもしれないけど、何も知らない奴なら普通にかっさらってくだろうなあ」
燐の顔色がみるみる青ざめる。
次の瞬間、言葉よりも早く燐は駆け出していた。
「……挨拶してくる!」
「いってらー」
唯はひらひらと手を振ったが、その先に燐の姿はもうなかった。
「真琴!」
夕陽の逆光のなか、燐は門の前に見つけた人影へ向かって叫んだ。
大きなキャリーケースを引いていた真琴が、声のした方を振り返る。
そこには、額に汗を滲ませた燐が立っていた。
「あら、燐。寂しくて出てこないのかと思った」
「ちが……っくはないけど!」
「ふふ。燐は本当に面白いわね」
真琴は、少しだけ寂しそうに口元を緩めた。
「今までありがとう。唯と喧嘩しないで、仲良くやるのよ。それじゃ」
「真琴。聞いてほしいことがある」
踵を返しかけた真琴の足が止まる。
「改まって、何よ?」
燐の喉は、とうに乾ききっていた。
それでも、はっきりと夕景に声を響かせた。
「俺、真琴が好きだ」
驚きこそしたものの、すぐに真琴の表情は硬くなった。
怒りを秘めたような、悲しみを堪えるような、切り分けられない表情だった。
「……どういう意味か、分かってる?」
「……分かってる」
しばらく沈黙したあと、真琴はゆっくりと目を伏せた。
「今でも、男の人は怖いわ」
そう言って、真琴は燐から視線を逸らした。
小さな肩が、わずかに縮こまる。
「私を"女"として見る目も。これから先、まともに誰かを好きになれるのかも分からない」
ほんの少しだけ迷ってから、真琴は続けた。
「もちろん、燐のことも」
胸が痛んだ。
それでも、目を逸らさなかった。
「だから――……」
「それでもいい!」
真琴が顔を上げる。
「……でも、きっと恋人らしいことなんて何もできないわ」
濁りのない視線が逃げるように、真琴は静かに言葉を置いた。
「そういうことだって、好きでしょ? 燐」
「いやっ……まあ、それは……」
「ほら」
取り繕うこともできない燐に、真琴は困ったように笑った。
「ちゃんと、そういうことに応えてくれる子にしなさいよ。アンタは確かにバカだけど、まっすぐなところが――」
「いらない!」
燐は、思わず叫んだ。
「もちろん、下心がないなんて言わない。そんな嘘はつけない」
小さく、息を吸う。
「でも、俺も同じように言わせてくれ」
「……?」
「たとえ普通みたいな恋人になれなくても」
一歩、真琴へ近づく。
「何もできなくても」
真琴が今、何を考えているのか分からない。
その不安に、燐の声が震えた。
「それより俺は、一番近くで真琴の笑顔を守りたい」
胸の奥にあったものを、全部吐き出す。
「それが、俺の一番の願いだ」
そこまで絞り切ると、燐は思わず目を閉じた。
返事はない。
どんな顔をされているのか、怖かった。
それでも恐る恐る目を開ける。
真琴は、困ったような、呆れたような。
それでいて、ほんの少しだけ気恥ずかしそうな顔で、そこに立っていた。
ハッと我に返ったように、真琴が険しい顔でツカツカと近づいてくる。
「え?」
いきなり燐のポケットから、頭の見えていたスマートフォンを抜き取った。
「あの、真琴……?」
何やら無言で操作している。
その綺麗な顔は、ずっとむすっとしたまま。
結局、それが答えなのかどうかも分からない。
やがて操作を終えた真琴は、スマートフォンを燐のポケットへ戻した。
無言のまま、キャリーケースのもとへ戻る。
「…………バカ」
燐の耳に、遠くから微かな真琴の声が届いた。
「それじゃ」
「え、あ……真琴!」
今回の呼びかけには、真琴は立ち止まらなかった。
キャリーケースを引きながら、夕焼けに染まる川向こうの駅へとただ歩いていく。
燐にとって、人生で初めての告白。
その、あまりにも不明瞭な返事。
燐はしばらく呆然と、その後ろ姿を見送っていた。
ふと、残されたスマートフォンを見る。
「……ん?」
そこには、施設で使っていた番号とは違う、新しい電話番号がひとつ追加されていた。
真琴。
そのメモ欄には、たった一言。
『連絡しなさい』
思わず笑みがこぼれた。
恋人になれるかなんて、わからない。
けれどきっと、まだ終わりでもない。
いつか彼女の隣に立っても恥ずかしくない大人になって、もう一度、会いに行こう。
燐は小さくなる背中を見つめながら、そう心に決めた。
◇ ◇ ◇
「ゆずー! 朝ごはんできたよ、起きてー!」
数カ月後。
今日も葉月の声で目を覚ますと、カーテンの向こう側から光が透ける。
いつも通り寝ぼけ眼をこすりながらリビングへ向かうと、だし巻き卵の香りが鼻孔をくすぐる。
導かれるように席に着くと、
『政府は本日、十八歳を成人年齢とする法改正について――』
朝食を食べながら流れていたTVニュースに、櫻井さんの眉間へみるみるしわが寄っていく。
『これにより、重要な契約などについても保護者の同意なく――』
「バカらしい!」
テーブルが揺れそうな勢いで吐き捨てた。
「十八歳なんて、まだ何にも分からんガキに選択の責任を押し付けるな!」
「朝からうるさいよ、櫻井さん」
「柚紀は黙って食え」
「はいはい」
葉月が苦笑しながら味噌汁を置く。
最近の櫻井さんは、ずっとこんな調子だ。
ついこの前も、未解決事件の捜査が難航しているようだったから、『せっかくの能力なんですし、事件の記憶を見ましょうか?』と提案してみた。
すると、『そんなもんはいらん!』と一刀両断された。
俺は最初、ただの強がりか、警察官としての意地なのだと思っていた。
けれど葉月によれば、どうやら違うらしい。
俺の能力は、悲惨な現場を直接追体験する。
その負担は、決して小さくない。
たとえ今の俺自身が「やる」と決めたとしても、まだ判断力の未熟なうちに繰り返し能力を使わせれば、いつかその記憶に苦しめられるかもしれない。
櫻井さんは、それを心配しているのだという。
たぶん本人に聞けば、絶対に認めないだろうけれど。
そういうところは、昔から変わらない。
「柚紀、遅れるぞ!」
「今行きます!」
玄関の向こうから飛んでくる声に、慌てて靴を履く。
「ゆず、お弁当!」
「あ、忘れてた。ありがとう」
葉月から弁当箱を受け取り、鞄へ押し込む。
「まったく。朝から何をしてるんだ」
「櫻井さんがニュースにキレてるからでしょう」
「俺のせいにするな」
「半分くらいはそうですよ」
「お前な」
いつものやり取り。
いつもの朝。
こんな日が自分に来るなんて、昔の俺は思ってもいなかった。
他人の腹の底なんて、きっとこれからも分からない。
信じた相手に、また裏切られることだってあるのかもしれない。
それでも。
だからといって、ずっと誰も信じられない世界しかないわけじゃない。
「柚紀?」
玄関先で、櫻井さんが怪訝そうに振り返る。
「何してる。もう鍵閉めるぞ」
「はいはい。今行きますよ」
扉へ向かって、一歩踏み出す。
正しいかどうかなんて、きっと最後まで分からない。
それでも今は。
この人たちを、信じてみたいと思っている。
それで十分だ。
「行ってきます」
扉を開ける。
朝の光が、視界いっぱいに差し込んだ。
———————————— Fin ————————————




