序章
フィクションです。実際の事件団体とは一切関係ありません。
重厚な屋敷の一室にその女は居た。
きらびやかな彫り物が施された柔らかい別珍のソファに腰掛け、透ける様な白い四肢をチャイナドレスから伸ばしている。顔はその四肢の持ち主である事を示すかの様な絶世の美女。長く艶やかな黒髪をきゅっと一纏めにし、大きな房の付いた耳飾りは、彼女が動くたびに優雅に揺れた。
部屋の端にあるドアの更に一つか二つ向こうでは、今、坂本龍馬なる男が、グラバーに長州への援助を求め説得に来ている。
恐らくこのままではグラバーは首を縦には振らないだろう。幕府に目を付けられては商売に悪影響だ。
「ふむ…」
一寸、考え込む様な仕草を見せると、女はソファに背を預ける。問題はない、とでも言いたそうな余裕の顔つきで、目を閉じた。
ここに自分が到着し、そして使いの者がそれを主人に報せに行き、それを聞いた主人が興奮して自分の前に現れる。安易に想像出来ることだが彼女にはそれが現実の映像として見える。
千里眼と言うのが近いだろうか。だから、部屋が幾つも離れたところで行われている坂本龍馬とグラバーとのやり取りもその目には映っていた。
そして先の映像通りこの屋敷の主、トーマス・グラバーは顔を紅潮させこの部屋のドアを勢いよく開いた。
「ミス・霞茘!」
グラバーは大股で女に歩み寄ると立て膝をつき、霞茘と呼ばれたこの女の手を取った。
「今日もお美しい」
女は満足そうにグラバーに笑いかける。それだけでグラバーは卒倒しそうだ。
「世辞はいい」
グラバーから自分の手を取り返すと霞茘は静かに立ち上がる。
「今日は老からの伝言を届けに来た。土佐の坂本龍馬が来てるであろう?」
「え…ええ。あの藩の者は唐突に現れて、無理を言い困っていたところで…」
「老はその坂本龍馬に従って薩摩と長州に加勢しろとの事だ」
グラバーの顔つきが変わる。何を言われたか一瞬判らないと言った風だ。
「確かに伝えたぞ。では息災でな」
霞茘は無駄のない動きで扉の方へ向かうとさっさと部屋を出て行ってしまい、残されたグラバーは呆然と立ち尽くしたが、はっと我に返るとすかさず霞茘の後を追う。
「待って下さい!ミス・霞茘!今夜食事でも…」
言いかけて霞茘が出て行った扉を開けたが、既に女の姿はなくその毒性の強い残りがだけが廊下を漂っていた。