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第七話

 



 父こそがヴァレットのすべてであり、目指す場所だった。褒められたくて、役に立ちたくて、言われるがままに努力してきた。勉強だって、剣術だって、婦女子にあるまじき行為だとしても父がやれと言うのならそれが正しいのだと信じて疑わなかった。

 それでも心の隅に違和感が付きまとい、王子との対面がその正体を暴いてしまった。

 誰よりも愛し、愛されていると思っていた父は、ヴァレットのことなど愛していなかったのだ。それどころか他の人と同じように疎ましくすら思われていたかもしれない。

 それに比べ、あの王子のなんと恵まれていることか。国の唯一の跡取りで、父もいて母もいてその両方に愛されて、男児として期待され、ゆくゆくは王となる。おまけにヴァレットに向かって真正面から不細工と言えるほど自身は美しい容姿をしていた。金の髪はさらさらで、顔は人形のように整っている。その割りににこりともせず、王子様らしく横柄だった。

 ヴァレットはヨシュアを尊敬できそうもなかったし、好意を持つことも出来なかった。

 ヨシュアの事を思い出すたびに、怒りがこみ上げ、それと同時にその時の父を思い出し悲しくなった。

 努力してきたことに何の意味があったのか。虚しい気持ちを抱えながら、それでも父には何も言えず、今までと変わらない日々を送っていた。

 心だけが父から遠ざかり、ヴァレットを取り残して、時間だけが過ぎていく。



『ヴァレット様、いかがなさいましたか?』

 サイラスの穏やかな声が、ぼんやりしていたヴァレットの意識を現実に引き戻した。ヴァレットは落としそうになっていたペンをしっかりと持ち直し、上の空だった事をサイラスに謝った。

 サイラスは滅相もございませんと恐縮し、おずおずとこう切り出した。

『私なぞがこのように申しましては差し出がましいかもしれませんが、何か悩み事でもおありなのですか?あんなに熱心に私の話を聞いてくださっていたヴァレット様が最近では何やら別の事に気を取られているように見受けられましたので』

 サイラスは眼鏡の奥の若草色の瞳を不安げに揺らめかせ、それでも放っては置けないと小さな決意をにじませていた。教師という領分を越え内面に踏み込む事に躊躇いを感じていたのだろう。

 サイラスは庶民の出でありまだ二十代後半と若輩ながら、その才覚をヴィルヴァラン侯爵に買われ、ヴァレットの教師として雇われていた。

 他国より俄然貴族意識が強く貴族と庶民の間に天と地ほどの隔たりがあるランベール国では破格の待遇であった。だからと言ってサイラスは慢心することなく、教え子と言えど上位貴族の娘であるヴァレットにも畏縮し、決して慇懃な態度を崩す事もなければ馴れ馴れしくすることもなかった。

 教わる分に親しみは必要なくヴァレットもそれに不満などあるはずもなかった。

 けれど。性別も違う、歳も違う、身分も違う、そんな二人が唯一共有する学問の世界に、先に感情を持ち込んだのはヴァレットの方だ。

 世間からすればありきたりな、けれどサイラスにとっては踏み込んだ質問をさせてしまった事にヴァレットは更に申し訳なく思った。

『すみません。考えごとをしていました。……お言葉に甘えて一つ質問してもいいですか?信じていたものが偽りだったと気づいた時、人はどうすればいいのでしょうか?』

 ありのままさらけ出すにはその感情は暗く重い。信頼はできるが人として情を交わしてこなかったサイラスにどこまで打ち明けていいのか距離感を掴めなかった。だからと言って悩みはないのかと聞きつつヴァレットより不安げなサイラスを突き放す事も出来ず、曖昧な質問を返していた。

 サイラスは拒絶されることを覚悟していたが意外にも返ってきた言葉に目を瞠った。それも一瞬で、すぐに眉根を寄せてヴァレットの質問の答えを真摯に考え始める。

 ヴァレットはその間、居心地悪そうに椅子の上で身じろぎしていた。分からない事があれば質問はよくしたが、こんな風に誰かに相談するのは初めてだった。

 しばらくして、サイラスはふうと小さくため息をもらすと、ヴァレットに目を合わせて困ったように微笑んだ。

『申し訳ございません。自分で聞いておきながら私ではその質問に答えを出す事はできそうにございません』

 その言葉にヴァレットは落胆よりも驚きを感じた。庶民の出ではあるが確かな知識を有しているサイラスに分からない事があるなど、想像もしていなかったのだ。そんなヴァレットを知ってか知らずかサイラスはこう続けた。

『明確な答えが存在する問いの方が、この世にはずっと少なく思えます。人は定義の中に押し込めたものでしか正解を導き出せません。ならばそれ以外の疑問はどうすればいいのでしょうか?正解なき答えにしか救いを見出せないのなら人は何にすがればいいのでしょうか?ある人はそれは神だと答えるでしょう。絶対の真理と疑わず、盲目に信じることこそ至高であると。ある人は己だというでしょう。目の前に広がる世界がすべてであり、自身で積み上げたものにこそ価値があると。

 ……ではそこにも答えを見出せない人は?』

 先ほどまでの頼りなげなサイラスはなりを潜め、その瞳には叡智を宿し優しげな笑みをたたえてヴァレットに問いかけていた。

 この人は良くも悪くも教師なのだとヴァレットは強く実感した。いつもの授業でも解き方は教えてくれるが正解は最後まで教えてくれなかった。分からないと答えても、柔和な見た目とは裏腹にヴァレットを甘やかすような事も決してしなかった。

 サイラスは確かに質問の答えはくれなかった。けれど、ヴァレットの心は少しだけ晴れた気がした。

『……私は早計だったように思います。先生はいつもおっしゃっていましたね。平面にとらわれず、多角的に見るようにと。もう少し自分で考えてみます。ありがとうございました』

『お力になれず申し訳ございません。ヴァレット様ならば自身の納得のいく答えを見つけられると信じております。今日の授業はどうなさいますか?もう少し続けますか?これで終わりますか?』

『今度こそ集中するのでもう少しお願いします』

 不躾でしたとサイラスはやっぱりへこへこと頭を下げ、そんなサイラスにヴァレットは少しだけ笑った。





『お父様、あの……』

『なんだ?』

 ヴィルヴァラン公爵はナイフとフォークを持つ手を止め、ヴァレットを見た。けれどヴァレットは皿を睨みつけたまま言葉の続きを口にすることができなかった。

『……なんでもありません』

 ヴィルヴァラン侯爵はそんな娘を不審に思いながらも、年頃を考えれば深く追求することも出来ず、そうかと素っ気なく返した。



 自身の殻に閉じこもっているだけでは、堂々巡りするだけで答えに辿り着けそうにない。だったら直接父の口から本心を聞けばいい。どういう思いでヴァレットにこんな教育を施すのか。娘として愛してくれているのか。

 けれど、ヴァレットにはそれだけのことが怖かった。知りたいと思った真実が望まないものだった時。想像するだけで身が竦んだ。

 父に何も聞けずに疑念を抱いたままいつの間にか三年の月日が流れていた。


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