道を歩く
楽しい時間はあっと言う間に過ぎてしまう。
明日から学校なので、松野さんに四ツ谷駅まで送ってもらった。
「ありがとうございました。楽しかったです」
「私も楽しかったよ。またね」
松野さんの車が見えなくなってから、僕は駅のホームへ向かう。
電車待ちの時間に、音楽を聴いておこうとミュージックプレーヤーを出して、イヤホンを耳に入れる。
流れ出したのは、ここ数日、ずっと聴いている一番のお気に入りの曲。三回くらいリピートしたあたりで、電車がホームに滑り込んできた。
部屋に帰ると、ベッドで横になる。今日はみんなといて楽しかった。一人になっても、今日はあまり寂しくない。
楽しかったことを思い出す。いつも以上に、僕がしゃべりっぱなしだった。
みんなは嫌がる素振りもなく、僕の話を聞いてくれた。
僕もいつか、みんなの話を聞いている方にまわる日が来るのだろうか。
そんな日がいつかやって来たら、僕も大人になれるのかもしれない。
そろそろ薬を飲んで寝る準備をしようかと思ったけれど、明日のことを考えて、僕は机に向かった。
英語の教科書をひらいて、明日の予習をもう一度やる。
明日こそは、学校にいこう。中田君にノートを返すのと、もう一度、ちゃんと大学生活にもどるんだ。
この思いを、大事にしたいな。萩原先生に次に会ったときに報告することははにかな。
考えてみると、大学も嫌なところばかりじゃなかった。
僕が気付かなかったところ、見えていなかったところがほかにもきっとたくさんあるだろう。
少しだけ、大人に近づいたような気がした。
太陽の光がカーテン越しに部屋に入って来る。少し眩しい。
夜が明けて、朝がやってきた。
着替えて、出かける支度をする。いつものようにパンにマーマレードをぬって、牛乳を飲む。
鞄には昨日、今日の授業に必要なものを入れているけど、僕は三回確認した。英英辞書も持っているし、忘れ物はない。
母さんの車に乗って、駅へ向かう。
駅はいつものようにたくさんの人が忙しそうにしている。いつもの光景だ。
スーツを着て、時間を気にしているサラリーマンの人。
二人で楽しそうに話をしている高校生たち。
僕はこの風景に、ちゃんと溶け込んでいるだろうか。
ホームに電車がやってきた。前の人に続いて電車に乗り込む。
椅子に座れたので一安心だ。ミュージックプレーヤーを出して、いつものように音楽を聴く。
できるだけ普通にしようと思った。
きっとそれなら普通に学校にも通えるだろう。
電車が動き出した。僕はいつものように、リピートボタンを押した。
いつもの景色、見慣れた光景。
一駅一駅違うけれど、毎日、見ているからわかる。
「まもなく四ツ谷、四ツ谷です」
電車のアナウンスが聞こえた。僕はイヤホンを外して、両手をぎゅっと握る。
「四ツ谷、四ツ谷です。お降りのお客様……」
足を一歩一歩確実に進めて、僕は電車を降りた。
駅のコンビニに向かう。
しばらく来ていない間に、雑誌が三冊も発売されていた。とりあえずぱらぱらと読んで、一冊を手に取ってコーヒーと一緒にレジへ持っていった。
会計をすませて、乗り場でスクールバスを待つ。
久しぶりだから、列に並んでいるのが少し気まずい。
ただ、僕のことなど誰も気にしていない様子で、みんな思い思いのことをやってバスを待っている様子だ。
知っている人はいない。同学年の人がきっといるんだろうけど、僕は気にしないことにした。
ロータリーにバスがやって来て、乗り場で止まって、プシュー、という音と共にドアが開く。
列が動き出した。僕もゆっくりと歩を進めて、バスに乗った。
何日か前まで、これが当たり前になるんだと思っていた光景。
これを、これから当たり前にしていけばいいんだ。
ミュージックプレーヤーを手にして、再生ボタンを押す。ピアノのイントロとともに、We can goが流れ出した。
私は非道くもがいてたから
救いの声さえ聞こえなかったの
ああ、そうだったなあと思いながら、ひとつひとつの言葉を噛みしめながら聴いていく。
いつの間にか、バスは動きはじめていた。
なくしたものを探しに、僕も動き出そうと思った。
あとがきにかえて
最後まで読んでくださったみなさん、本当にありがとうございます。
数年前に執筆した原稿で、時代設定は西暦2000年頃になっています。
引用作品
Gloomy Sunday/Billie Holiday
Blue Monday/New Order
We can go/鬼束ちひろ




