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22話

 月曜の午前、九十の真ん中で、桐原の手が止まった。

 指先が紙の角で迷子になる。


 僕は声を出さず、机の端へ付箋を一枚、そっと滑らせる。

 『十秒だけ崩れます』

 彼女は小さくうなずいて、目を閉じた。十秒。

 開いたとき、呼吸の音が少し整っていた。


「椅子の戻し方、教えてください」

「角を合わせて、押すだけです」

 背もたれを軽く押して、足と床の継ぎ目を合わせ直す。

 「こんなふうに」

 「会計と同じ」

 「会計と同じ」


 午後、プリンタが紙を飲み込んだ。

 「すみません、紙づまり……」

 カバーを開けて、噛んだ紙の角を見つけ、押さずに、引かない。

 角に指を引っかけ、息を合わせて抜く。白い一枚が、怪我をせずに戻ってきた。

 桐原が小さく拍手して、猫を一つ描く。


 夕方、ガラスに斜めの線。

 玄関のひさしの下で、雨脚をやり過ごす。

 「緊急の相合い傘は、ありがとうで会計処理」

 「特別損益ですね」

 「専門用語の言い方やめてください」

 「失礼しました」


 一本の傘の中、半歩ずつ距離を合わせる。

 このビルの前の段差は、雨の日だけ滑る。

 僕は知らないふりで半歩左へ寄り、彼女の足が段差を外れる動線を作った。

 「ありがとう」と、今日のうちに言える大きさで言う。


 エレベーターを待つ間、蛍光灯が少し揺れた。

 言葉を置く場所を、探す時間が生まれる。


「隣人ルール、追記をしてもいいですか」

「ver.4.1ですか」

「うん。“隣は、偶然では置かない”」


 桐原の横顔が、蛍光灯の白でやわらぐ。

 僕は付箋を取り出し、業務連絡の形で一行だけ書いた。

 『当日仕訳:隣は、選択により配席』

 角を二度押して、彼女に見せる。


 彼女は読み、猫を一つ描いて返す。

 「“未投函”の匂いがします」

 「当日の枠で置いておきます」

 「翌日振替不可」

 「はい」


 エレベーターが来る。

 非常灯の緑は、今日も止まらないための色だ。

 箱の中で、僕らは言い切らない言葉を手すりの上に置いた。

 分かる人には、分かる濃さで。


 『隣は、選択により配席』——業務連絡の顔をした手紙。

 未投函と分かるのに、当日仕訳の濃さで伝わる。

 角を二度押して返した猫は、了解の代わり。

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