20話
七月になると、冷房の風が紙の角で引っかかるようになった。
ホワイトボードの端に時間のメモが一枚増えている。手書きで「90/10」。その下に小さく「理由は“合格ライン”の突破」とある。桐原の字だ。
「“理由は長く”だけど、長すぎないにします」
「必要なだけ長く。余白は明日に」
「はい」
午前の九十は簿記論の総合問題。
桐原は猫、炎、時間メモの順で付箋を並べ、タイマーのボタンを音を立てずに押した。
最初の一問で目が迷う。僕はノートの隅に、短い矢印を一本だけ描く。“ここからここまでが動く”。
彼女は十秒だけ目を閉じて、残りの八十九分で立て直した。
「“落ち込む十秒速”って、お守りみたいですね」
「単位があると、量が測れます」
「量が測れると、座り直せる」
休憩の十分で、湯呑みの湯気がすぐ季節に負ける。
斉藤が顔を出して「七月は紙が汗かく」と笑った。
「紙は汗をかかないです」
「情緒ゼロ!」
笑いが散って、紙の海へ戻る。
昼、机ランチ。
桐原は卵焼きの黄色を、わざとゆっくり噛んでいた。
「“新しいことを増やさない”を貼ってから、噛む回数が増えました」
「続くための仕組みは地味なほど強いです」
「噛む回数が多い方が脳に良さそうだしね。」
午後は財表。定義は短く。理由は“合格ライン”の長さで。
彼女は口に出さない声で、順番だけ確かめていく。
“その他の包括利益”“費用収益対応の原則”。
僕は隣で、理由の語尾を「〜である」に揃えるための警備員になる。
夕方、麻生さんからチャット。
『本日版、二重保存。在宅』
短く、正確。倒れないための距離は今日も保たれている。
帰り際、桐原がホワイトボードに付箋を一枚。
『“理由の過不足”は明日に回す』
角を二度押して、猫を重ねる。
エレベーターの非常灯は、今日も止まらないための色をしていた。
「七月の風って、“まだ途中”の匂いがしますね」
「いい定義です。まだ成長中ということですね。」
「理由は明日、長くします」
*
理由を“合格ライン”にそろえたら、座り直しが少し速くなった。
“まだ途中”の匂いが、今日の私を軽くする。




