花畑の2人
ゼルディアに夜が訪れ静寂に包まれる頃、千尋はレオニスの船にある寝床を抜け出していた。
ノアが丹精込めて作り上げた中庭はメイドたちが管理を引き継いでいる。その中庭に停められたレオニスの船から放たれる金色の光に照らされて、色とりどりの花が美しさを競うように咲き誇っている。
「花でいっぱいね」
ノアを籠絡するために使った言葉が現実となっていた。その事実に冷笑を浮かべながらも、千尋は花を愛でる。
夕刻に降った雨のせいで葉が濡れている。千尋は1つ1つ花を揺らして、葉についた雫を落としてやる。貿易都市のゼルディアは城塞に囲まれ、余り風が吹いてこない。濡れたままでは葉が痛み枯れてしまう可能性を、千尋は知っていた。
咲きほこる花々を慈しむように撫でていると、今は誰も使っていない元騎士団の館のほうから、歪な足音が聞こえてくる。
普段は風の少ない庭に、不意に冷たい風が吹き抜ける。そして、千尋はいつか通った下水道の臭いに鼻を鳴らして、いくつかの意味で顔を歪め、立ち上がる。
「虎なら、虎らしく。臭いでバレないように、気をつけなさい?」
千尋が騎士団の館の方を向くと、四つん這いで千尋を狙うノアの姿があった。右耳まで失い、顔の部位の6割か7割を失っていよいよ獣じみた見た目になったノアは、ヒューヒューと鼻息を荒くして、千尋を血走った目で睨む。
「急いできたの?貧困街でも噂になっていたかしら……」
昼間にバルタザールに依頼した戦うメイドの噂話は、夜には顔無しの怪物騒ぎの中心地、貧困街にも伝わっていた。
怪物に怯える娼婦たちは、噂好きで口に戸がつけられない者が多いのか、千尋を探しに下水道から出たノアの1つしかない耳にもしっかりと、その噂話は届いたようだ。
「ハヘン、ほろひへてはる」
ノアが千尋への殺意を口にする。その言葉を待ってように千尋はノアに向けて微笑み、抱擁でもするかのように手を広げる。
それを合図にノアは虎の如くに駆け出す。抱擁の為ではなく、千尋を殺める為に。
「あ゙あ゙ぁーーーー」
ノアは咆哮と共に千尋の目前まで距離を詰め、そのまま千尋の喉笛へ噛みつくように、文字通り牙を剥く。千尋は右の頸動脈狙いの攻撃を看破して、メイド服のスカートを揺らし屈伸するように躱す。
狙いが外れたノアは、自らが作り上げた中庭を踏み荒らす。ノアが動く度に、雨に揺れた花畑から雫が飛ぶ。かつて花を愛でることを救いとしていたノアが、躊躇なく花々を足蹴にして濡れるさまに、千尋はほくそ笑む。
「ほら?花が泣いているわ。かわいそうだと思わないの?」
「あ゙あ゙ぁーーーー」
虎が再び吠える。ノアの目にあるのは千尋への怒りと憎しみだけだった。自らが育てた花々を手折った後悔や悲しみは無く、花畑に身を隠すように体勢を低くして駆け回る。
貧困街での戦闘はノアの足が見えていた事で、千尋は優位性を保っていた。踏み込む瞬間が分かれば、ノアの直線的な攻撃は読みやすく、対処は容易だった。しかし今はノアが作った花畑が、彼の手足を隠している。
「そうそう、そうやって使えるもの全てを使いなさい。私を殺すために、生きるために」
飛び込まれる瞬間が分からなくなった千尋は防戦に転じていた。ナイフを構え、駆け回るノアを常に正面に捉えるために、千尋自身も移動して警戒していた。
ノアが千尋の言葉から学びを得たように、背の高い花畑に身を隠した。ノアが移動すれば揺れて場所が分かるが、手足を使い不規則に揺れる花畑に千尋の警戒心は疲弊していく。
飛び出す瞬間が分からない恐怖、相手がどこにいるか分からない恐怖は並の人間なら耐えられないだろう。成長する怪物を目の前に、千尋は愉悦に満ちた笑みを浮かべていた。
そして、千尋もまたノアのように花畑で体勢を低くして四つん這いになる。
千尋もノアの視界から外れることで、ノアもまた相手を警戒する必要性が生まれ、獲物を狙い合う虎と女豹が対決するが如くの状況になった。しかし、指先を使うことのできる千尋はノアよりも1枚も2枚も上手だった。
ノアの動きが鈍る度に、花の茎を結び罠を作る。それはノアにはもう出来ない事で、思いつきもしない事であった。
「が!」
ノアが罠に足を取られ、もつれるように倒れた。その瞬間に千尋はナイフでノアを狙う。が、ノアは力任せに駆け出し、千尋の攻撃を躱そうとした。急所の頭や胸の辺りを狙った千尋の一撃は、無理やり駆け出したノアのふくらはぎをかすめる。
「ヒュー、ヒュー」
千尋に傷の程度がバレないように、ノアは痛みを耐える。息を細くして心を落ち着けるように呼吸をすると、ノアの鼻から不自然に息が漏れ、笛のように音が鳴る。
「さあ、続けましょう。まだ動けるでしょ?こんなに楽しい夜だもの」
ノアは千尋から距離を取る。対峙している者に新しい感情を覚えたからだ。戦いと言うには野蛮なやり方で相手を追い詰める目の前の女に、ノアは得体の知れない不気味さを感じていた。
距離を取り、花畑を出ると。元騎士団の館へと向かいノアは駆け出す。お互いが見えない状況ではノアには不利だった。千尋の言う通りに、殺すために、生きるために使えるものを探さなければならない。
ぼんやりと光るレオニスの船は戦いを彩るにはお誂向きだが、狩りをするには邪魔な存在だ。明かり1つない騎士団の館ならば、下水道と同じ暗闇だ。ノアが生き残るには、出来るだけ自分の世界に千尋を引きずり込むしかない。
館の扉に体当たりをすると、両開きの扉が少し開き、その中にノアは滑り込む。騎士団の寝食と訓練の為に作られたこの館に入るのは、ノアも初めてだった。
広間の正面には階段があり、その先は真っ暗で何も見えない。階段の両脇には鎧が飾られ、その手に持った剣を真上に掲げている。ノアの手がものを持つことが出来たなら、真っ先に手に取ったかもしれないが、今のノアの頭にはそんな考えはなかった。
窓から入り込む月明かりが、槍や剣が飾られた広間をわずかに照らす。訓練場を思わせる作りで戦うには丁度いいだろうが、狩りをするには不向きだ。ノアは瞬時に判断して階段を駆け上がる。
少し遅れて千尋がやって来る。月明かりを背に、ナイフを片手に持つメイドが両手を使い、両開きの扉を開け放つ。その顔は月明かりを背にしており、どんな表情かは分からない。恐怖映画の怪物のように館に入って来た千尋は、2階の廊下が軋む音に反応して上を見る。
「ノアさま〜?どこにいるのですか〜」
ノアが心を許したカレン・リュグネリンの声色で語りかける千尋は階段を一段一段ゆっくりと上っていく。




