鏡合わせの怪物
ゼルディアの街は地下に下水道が張り巡らせてある。貴族街から貧困街へ、緩やかな坂道を利用して海に繋がる川へと汚水は流れていく。
ノアは顔無しの怪物となった時から、この下水道を住処にしてきた。時折訪れる人から身を隠して息を潜め、同じく下水道を住処にする鼠などの小動物を糧として生きてきた。
バシャバシャと音を立てながらノアは下水の中を進む。ずきずきと傷む右耳の傷口を押さえるように、片方の手をを添えるが止血することは叶わない。親指があれば布でキツく絞めたり、止血することができただろうが、千尋のせいでそれも叶わない。
「ハヘン……。シシロ」
諸悪の根源を呪うようにノアは呟いた。千尋さえいなければ、こんな事にはならなかった。しかし、千尋がいなければこんなに素直に感情を吐露し、殺意に身を震わせることも出来なかっただろう。
五体満足なら感謝こそすれ、呪うことなどなかっただろう。だが、千尋はノアを殺人犯に仕立て、反論も出来ないように声を奪い、物すら持てないように親指を奪った。
猿と人の違いは唇を巧みに使い発音することと、手の親指で物を支えて扱う事が出来るという点にある。不自由過ぎる身体をまた再び痛みが支配している。ノアが痛みを和らげるために目を瞑れば、瞼の裏に映るのは千尋のあの厭味ったらしい微笑みだ。
千尋は今もあのフィル・ブライヤ家にいるはずだ。以前と変わらぬメイド姿で、屋敷を我が物顔で歩いているに違いないだろう。そう思うとたくさんの物を千尋に奪われた。臭い下水道の臭いすら分からないのが唯一の救いだが、家すら奪われた事を思い出して、ノアは目を開いた。
「シシロ……」
ノアはまた千尋の名を呼んだ。脳内物質が痛みを和らげ、興奮と千尋への殺意がノアを支配する。顔なしの怪物が出歩けるのは夜だけだ。ノアは身体を丸め、下水の流れる音を子守唄に眠りについた。
千尋を殺すための力を蓄えるために。
同じ頃。ウルブリヒトは千尋たちの帰りを待っていた。頭上のレオニスの船は、暗闇の中でもぼんやりと金色に輝き、疲れたようなウルブリヒトの顔を照らしている。
千尋とクリーゲインが言い争う声が聞こえてくる。言い争う構えなのはクリーゲインのみで、千尋はその揚げ足を取り反撃しているようだ。その会話の内容から、顔無しの怪物退治はうまくいかなかったのだろうと悟ったウルブリヒトは、ため息をついた。
ようやく千尋たちにもレオニスの船が放つ光が届き、3人の女性の人影が見えてきて、ウルブリヒトは声をかけた。
「遅かったですね?どうやらうまくいかなかったようですが……」
「半分は上手くいったわよ?」
ようやく顔が見える距離まで近づいた千尋が、ウルブリヒトに訳ありげに微笑むと、ウルブリヒトは眉を上げて反応する。
「半分とは、どう言うことですか?」
ウルブリヒトが千尋に質問すると、なぜか反応したのはクリーゲインだった。
「そうだよ、オッサン。千尋のやつ意味のわかんねぇ事ばかり言いやがる」
言いながら、クリーゲインは不躾に千尋を指差す。が、躾けをするように千尋に手を払われ、クリーゲインは目を丸くした。
ゼルディアの執政官を捕まえて、オッサンと言うクリーゲインに、その場にいた全員の視線が集中する。が、クリーゲインはその視線の意味も気にせずに話し始める
「顔無しの怪物に餌をやったとか、好物の前で他の食い物食うかとか、意味の分かんねぇ事ばっかり言いやがる」
「なるほど、だから半分はうまくいったわけですね?」
「そう言う事よ」
千尋はウルブリヒトの反応に満足げに微笑む。ようやく話しが通じた嬉しさもあるのか、心なしかいつもよりも千尋の顔が綻んでいるように見える。
「なんだよ!オッサンは分かんのかよ!」
クリーゲインがつまらなそうにそっぽを向き唇を尖らせる。その隣でターニャがクリーゲインに、ウルブリヒトの名前を囁いている。
「ああ、そうだったな。で、ウルブリヒトさんはなんでわかったんだよ?」
「顔無しの怪物の標的は千尋さんだけになったということです……。しかし、どうやったのですか?」
「別に?私を忘れられないようにしてあげただけよ」
ウルブリヒトが、またため息をついた。千尋と言う人間がいると、何故かため息が増えてしまう。ウルブリヒトも千尋に会わなければ、平々凡々で退屈な日々を過ごしていただろう。千尋に人生を狂わされ、刺激的で心労の絶えない日々を送るようになった。だが、悪い気はしていない。その事に気がついたウルブリヒトは、諦めたように自嘲する。
「全く、困った人ですね……」
その言葉に千尋は肩をすくめて無言で答える。ウルブリヒトの言葉に同調するように、クリーゲインは腕を組んで千尋を睨む。
「たったそれだけの事で、威張んじゃねえよ!」
「怪物を逃がした人に言われる謂れはないわね?」
千尋がほくそ笑みながら反論する。千尋のその言葉と態度が、クリーゲインを苛立たせる。
殺人犯を捕らえようとした大捕物が失敗したというのに、緊張感もなく再開する何度目かの言い争いにターニャは肩を落とし、ウルブリヒトも2人の相性の悪さに、やれやれと頭をかいた。
こうして最恐の千尋と、最強のクリーゲインの2人によって繰り広げられた、怪物捜索1日目は終わりを迎える。
痛みに耐え、目を瞑り、眠りにつくノアと、察しの悪い仲間と、不完全な怪物を嘲笑する千尋。対照的な2人だが、その口元の歪みだけはそっくりだった。




