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■第九章:さらば、お台場

 晴れの日の金曜日、私は朝から快調にバイクを飛ばす。だが今日は旅に出るわけではない。新しい土地を目指すでもなく、海辺で夕陽を待つでもない。


 行き先は——品川。


 週の終わりであるこの日は、一週間を締めくくる最後の仕事との最終決戦が待っている。


 横浜から横羽線を駆け抜け、東京湾を右手に見ながら走るこの道は、旅立ちの始まりを幾度となく彩ってきた。


普段は下道派の私であるが、この日の行きだけは高速道路に乗る。

なんせ下でちんたら走っていては、日が暮れてしまう。

道中一度コンビニに寄って一服するも、ものの5分程度。


——ただ忙しないだけの道行き。

それでも、なぜ私はバイクに乗るのか。

理由は簡単だ。

帰り道が、楽しみだからである。


 屋上の駐輪場にバイクを停め、重い足取りでエレベーターに乗る。

 ドアが開くと、そこに広がるのは「オフィス」と呼ぶにはあまりにも味気ない空間だった。蛍光灯の明かりは黄ばんでいて、壁紙は所々剥がれている。言葉で表すなら、事業所というのが正しいだろう。

 ここで私は、管理に関わる仕事をしている。

 数字を見て、帳簿を整え、人を割り振り、トラブルを収める。誰かに感謝されるわけでもなく、称賛を浴びることもない。だが、誰かがやらなければ回らない仕事だ。

 ——「最終決戦」とは言ったが、実際は地味で退屈な作業の連続である。

 けれども、それをやり遂げたときにだけ与えられる解放感が、私にとっての“旅の始まり”を告げる合図になっている。


 そのまま席に腰を下ろし、黙々とパソコンとにらめっこする。人員のケアをし、電話を取り、トラブルに頭を抱える。

 一つ片づければ、また一つ舞い込んでくる。まるで終わりのない波を相手にしているようだった。

 その日の私は、惨敗だった。

 努力が実を結ぶこともあれば、空回りして終わることもある。今日という日は、間違いなく後者だ。

 上司からは「よく頑張った」とねぎらいの言葉をかけられた。だが、心の中は空っぽだった。

 非情にも伸びていく残業。

 気づけば時計の針はとうに定時を過ぎ、窓の外はすでに群青に沈んでいた。

 ぽつり、ぽつりと上司たちが席を立ち、ひとりまたひとりと帰っていく。

 「お先に」とかけられる声に笑顔を返しながらも、胸の内も空っぽだった。

 気がつけば、事務所には私ひとり。

 煌々とともる蛍光灯に、ディスプレイの白い光だけが残されていた。


 やっと終わったのは20時半ごろだった。

 数字だけを見れば、伸びた残業の中ではまだ早い方に入るのだろう。

 だが、この日はメンタルを徹底的に削られていた。能率も上がらず、書類の一枚一枚がやけに重たく感じた。

 立ち上がった瞬間、椅子の背に押しつけていた疲労が一気に身体へとのしかかってくる。

 肩は鉛のように重く、頭は霞がかかったようにぼんやりする。

 「よく頑張った」と言われたはずなのに、胸に残ったのは達成感ではなく、空洞のような虚しさだった。

 屋上へ上がると、空はすでに闇に沈み、代わりにビル群がぎらぎらと光を放っていた。

 まだこの時間も、どこかのフロアでは残業戦士たちが戦っているのだろう。

 その無数の窓の明かりを見上げながら、「自分もそのひとりに過ぎないのか」と苦笑した。

 だが次の瞬間、バイクに跨った途端に気持ちは切り替わる。

 グローブを締め直し、ヘルメットをかぶる。

 エンジンの鼓動が胸に響いた瞬間、重く澱んでいた心が少しだけ軽くなった。

 今夜の行き先は——すぐ隣の島にあるお台場。

 それだけの距離だ。けれど、仕事で削られた心を解放するには十分な理由だった。


 本来ならレインボーブリッジを駆け抜けていくのが理想だった。

 夜の海を跨ぐように伸びる光の橋を、風を切って走る。——それが一番の絵になるのは分かっている。

 だが私は、高所恐怖症なのである。

 125ccの頃はよく渡っていた。まだ若さで勢いが勝っていたのだろう。

 けれど今は違う。アメリカンを経て、今のネオレトロネイキッドに辿り着いた私も、大型の体躯に似合わず、高所と風の組み合わせには足がすくむ。

 だから今夜は大人しく、東京港トンネルを潜る。

 海底を抜ける暗いトンネルの中、規則的な照明に照らされながら、ただ前だけを見て走る。

 地上に戻ったとき、眼前に広がったお台場の街の灯りは、日常がただただ近づいただけであった。


 昔、田舎っぺな私がまだ何者でもなかった頃、テレビで見て憧れていた光景があった。


 画面の中で輝いていたあの街は、まるで架空の夢の国のように思えていた。

 フジテレビの球体展望室、煌びやかなビル群、海辺のデッキを行き交う人々。そこは私にとって、手を伸ばしても決して届かない「別世界」だった。

 だが今、こうしてバイクで走り抜けるお台場は、あの頃と何も変わらないはずなのに、不思議と当たり前の光景に見えてしまう。

 憧れが色あせたわけじゃない。むしろ、憧れに近づきすぎてしまったがゆえに、特別感が消えたのかもしれない。

 あの頃の夢の国は、今や仕事帰りにふらりと立ち寄れる場所になった。

 時間と経験が、私の目線を変えてしまったのだ。

 バイクをダイバーシティの駐輪場に停め、ヘルメットを外す。夜の湿った潮風が首筋を撫でていく。

 足は自然と、ハンバーガーショップへと向かっていた。

 店に入れば、横はフードコート。どこか日常的なざわめきに囲まれているのに、不思議とここだけは異国の空気をまとっている。

 日本に数えるほどしかない店舗。その希少性が、ちょっとした特別感を演出してくれる。

 注文するのはいつも同じだ。分厚いパティのスタンダードなハンバーガーのセット。山盛りのポテトとドリンクバーがついてきて

 ラインナップの中にドクターペッパーが入っているのも嬉しい。一杯で済むはずなのに、ここではつい調子に乗って飲みすぎてしまう。お腹がタプタプになっても、なぜか許せてしまうのだ。

 かぶりつくと、肉汁が口いっぱいに広がり、炭酸の甘ったるい刺激が喉を突き抜ける。

  仕事で削られ、心がメランコリックに沈んでいたのも、気がつけば少しずつほぐれていた。

 ——やっぱり、食べると元気になる。

 それは単純なことのようで、実はとても大切なことなのだ。




 腹も満たされ、心もいくらか落ち着いたところで、私は再びバイクに跨る。

 帰り道はもちろん下道だ。高速で一気に帰るよりも、少しでも長く夜の風を浴びていたかった。

 ミラー越しに映るお台場の光は、行きに見た時よりもどこか澄んで見える。

 ほんの数時間前まで、仕事に押しつぶされるようにして辿り着いたこの街は、帰り際にはまるで別の顔を見せていた。

 摩天楼の灯りはきらきらと瞬き、海面に反射して揺れる光は、まるで私の背中を優しく見送っているようだった。

 アクセルを少し開けると、夜風が首筋を撫でていく。

 ネオンとテールランプの尾が連なる大通りを抜けながら、私はふと「東京も悪くない」と思った。

 昼間の喧騒が消えた後のこの街は、どこか旅先の夜に似ている。


 スカイブリッジに差し掛かったあたりで、やたらと車間を詰めてくるハンターカブがいた。

 最初は「なんだ?」と思ったが、信号で並ぶと、そのおっちゃんは満面の笑みで話しかけてきた。

 「バイク、かっこいいですね! リアボックスとか、ディティールすごい凝ってて素敵です」

 「ありがとうございます! これ、自分で塗ったんです」

 たったそれだけのやり取りだった。

 けれど、その言葉が胸にぐっと沁みた。

 信号が青に変わり、それぞれのバイクは違う方向へ走り出した。

 短い出会いは、ほんの数秒で終わった。

 ——でも、嬉しかった。

 錆び加工まで施して仕上げた塗装。夜な夜な格闘した日々を思い出す。

 大変だった分、誰かに気づいてもらえることが、こんなにも心を温めるのか。

 アクセルを開けながら、視界がじんわり滲んだ。

 人の言葉って、不思議だ。

 ほんの一言で、沈んでいた心をここまで救ってくれるのだから。


  涙を隠すように夜風に顔をさらしながら走っていると、不意にインカムが鳴った。

 着信の相手はつよしだった。

 「おう、元気か?」

 元気かどうかでいえば仕事で疲れ切ってて元気じゃない。でも、不思議と元気が湧いてくる。

 仕事で潰れた心も、帰り道でかけられた言葉に救われたことも、ついさっきの出来事を笑い話に変えて伝えていた。

 「そっちはどうだ?」

 「まあまあかな。今度どこ行く?」

 そんな他愛もない会話が、妙に心を軽くしていく。

 エンジンの振動と風切り音に混じって、つよしの声がヘルメットの中に響く。

 話題は仕事から、地元の話から、そして次の旅の計画へと移っていく。

 「ほな今度は四国でも行こうに」

 「いや、今度はもっと遠くまで……北の方とかどうだ?」

 互いに笑い合いながら言葉を交わしているうちに、ミラー越しの都会の灯りはどんどん遠ざかっていった。


 そんな情景を見送る向こうで、つよしが笑い混じりに言った。

 「いつでも戻ってこいよ」


 その言葉に、不思議と胸が温かくなった。帰れる場所があるという安心感。そして、一人で走っているはずなのに、決して独りじゃないという心強さ。

 私にとって帰る場所は一つではない。

 地元、仲間、旅先で見つけた沢山のふるさと、小さな出会いに大きな別れの数々。走り続けた先で繋がった点が、いまは線になり、確かに自分を支えている。

 これまでを振り返れば、孤独や迷いに押し潰されそうになった日もあった。けれどバイクとともに走り、仲間と語り、土地に救われるたびに、「まだ進める」と思えた。

 人生は寄り道ばかりだ。それでも、その寄り道の一つひとつが、今の自分を形づくっている。

 いつかは地元へ帰るだろう。

 だが、それは「逃げ帰る」のではなく、「誇りを持って帰る」ためだ。だからこそ、もう少しだけここで足掻きたい。もう少しだけ、自分の物語を積み重ねたい。

 だんだん、家へと近づいていく。

 憧れはもう過去のものだ。だが、その先にある道は、まだ続いている。

 ——さらば、お台場。

 私はまだ、走り続ける。



走ること、それは生きること。


今作品もこれにて終了になります!


長らく読んでいただきましてありがとうございました


一応、第二巻の方も書き上げてはいますが


気が向いたらあげようと思います。


しばらく更新するものがなくなりますが、


またどこかでお会いできればと思います。


心より感謝申し上げます!

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