■第七章:安らかな寸暇、北杜の杜
山梨に生まれ育ったわけでもなければ、特別な思い出があるわけでもない。
だが不思議と、この土地には「縁」だけは繋がっているようだった。
通り過ぎるはずが、いつの間にか立ち寄っている。用事があるわけではないのに、気づけば足を運んでいる。
キャンプなら出発を急ぐ必要はない。だが、私は渋滞が嫌いだ。だから深夜のうちに走り出す。
129号線から412号線へと抜け、相模湖を横目に駆け抜ける。
街灯に照らされた水面は静かに揺れ、深夜の孤独を映し出していた。
その孤独に寄り添うように、エンジン音だけが一定のリズムで鼓動していた。
考えてみれば、キャンプなんて道中の愛甲郡でやったって構わないのかもしれない。
それでも私の心は、もっと遠くへ——北杜市へと向かっていた。
そこに特別な「理由」はない。だが確かに「縁」がある。
呼ばれるようにしてハンドルを切るたび、胸の奥で見えない糸が引かれていくようだった。
笹子トンネルを抜けると、ようやく朝日と正面から出会うことができた。
光が山肌を金色に染め、冷えた空気の中にじんわりと温もりを差し込んでくる。
夏とはいえ、標高の高い朝の山道はひやりとするほど涼しい。走り抜ける風が、夜を走り抜いた身体を洗い流してくれるようだった。
しかも、この時間は行く手を阻む車もなければ、飛び出してくる子どももいない。
ただひたすらに、自分のリズムで走れる時間が広がっていた。
唯一の脅威といえば、野生動物だ。シカやイノシシに出くわせば、人間の都合など関係なく、どうしようもない。
それでも、そうした不確かさすら「自然の中を走っている」という実感に変わっていた。
緩やかな長い坂道を下ると、眼下には甲府盆地が広がっていた。
ようやく辿り着いた安心感と、夜を駆け抜けてきた疲労が一気に押し寄せる。
そんなとき、私の頭に浮かんだのはひとつだけだった。——腹が減った。
選んだのは迷わず山岡家。
脂とニンニクの香りが立ちこめる店内に足を踏み入れた瞬間、身体が「これだ」と訴える。
夜明けの冷えた空気でこわばった指先に、湯気の立つ丼が置かれる。
濃厚なスープを一口すすれば、胃袋に火が灯るように体温が戻っていった。
普段なら少し重たく感じるこってりも、今の私には薬のように沁みた。
「やっぱり走ったあとの山岡家は別格だな」
心の中でそう呟きながら、何も考えずに一気に平らげていた。
朝から山岡家?と思う人もいるかもしれない。
だが意外とこれがいい。
濃厚なスープのパンチは、夜通し走って消耗した身体にダイレクトに染み込む。
塩気と脂で胃袋が叩き起こされ、ニンニクの香りが頭の奥にまで突き抜けていく。
独りならではの楽しみ方でもある。
普段なら「重いな」と感じる味も、このときばかりは最高の栄養補給だ。
パンやコンビニ飯では絶対に得られない力強さがあった。
丼の底が見えたとき、ようやく「今日が始まった」という実感がわいた。
満腹の腹を抱えて、再び20号線を北へ走る。
朝日が傾斜した山肌を照らし、路面に長い影を落としていた。
アクセルをひねるたび、ラーメンの余韻が胃の奥で揺れる。
やがて「道の駅白州」の看板が現れた。ここに来たら必ず立ち寄るのは、湧き水だ。
片手に水筒、片手にカナビラカップを携え水場へ向かい、冷たい水を勢いよく汲み上げる。
ひと口含むと、舌に触れた瞬間に「違う」と分かる。
濃厚なスープで乾ききった喉を、一瞬で洗い流してくれる透明感。
自然が何十年もかけて濾した水が、まるで身体の芯まで浸透していくようだった。
山岡家で力を得て、白州の水で浄化される。
そのアンバランスな組み合わせこそ、旅の醍醐味だった。
この時間帯はまだスーパーも開いていない。
だから先に武川の岸辺、自分だけが知っている野営スポットに拠点を建てることにした。
テントを張り、インフレーターマットを広げ、LEDランタンにレジャーシート。
いたって簡素。だが、それで十分だった。
私のスタイルでは、基本的に焚火はしない。
もちろん、キャンプといえば焚火というイメージはある。だが、それはテレビや雑誌に煽られた幻想に過ぎないと私は思う。
野営地はそもそも直火は原則禁止である。自治体によっては火気厳禁なところもあるので必ず確認して欲しい。
カリンバを取り出し、指先でぽろんと音を鳴らす。
澄んだ音色が川のせせらぎと混ざり合い、森に溶けていった。
曲になっているのかどうかは分からない。だが、その響きに自分の心がゆるんでいくのが分かった。
やがてマリンシューズに履き替え、川へと足を踏み入れる。
冷たい水がくるぶしを洗い、頭の奥まで目を覚まさせる。
意味もなく川を遡上してみたり、石の感触を確かめながら飛び移ったり——。
大自然の中では、工夫次第でやれることはいくらでもある。
それは子どもの遊びにも似ていたが、大人になった今だからこそ味わえる贅沢な時間でもあった。
昼になれば、家から持参してきたパンとインスタントのカレーを取り出す。
レギュレーターストーブに火をつけ、カレーのパウチをぐつぐつと温める。
安っぽいと言われればそれまでだが、腹を満たすにはこれで十分。むしろ外の空気に包まれて食べれば、どんな食事もご馳走に変わる。
食後は、白州で汲んできた湧き水をケトルに注ぎ、ゆっくりと火にかける。
立ちのぼる湯気の先には、熱気と清涼の境目が見えるようだった。
淹れたてのコーヒーをすすれば、苦みと香りが口いっぱいに広がり、心まで落ち着いていく。
エネルギーを補給して火照った身体は、また川に飛び込んで冷やす。
涼んでは日差しを浴び、また水へ戻る。
その繰り返しが、時計の針とは無縁の「自然のリズム」になっていた。
午後三時ごろ、近くにある「むかわの湯」へと足を運んだ。
汗を流すといっても、ずっと清流に浸かっていたから、実際にはほとんど汗なんてかいていない。
それでも、川の水と温泉とでは、身体の解け方がまるで違った。
湯に身を沈めると、筋肉がほどけ、骨の芯までやわらかくなっていくようだった。
大きな温泉施設ではない。だが、その規模の小ささこそが心地よい。
地元の常連らしい人々が、湯船の隅でぽつぽつ会話している。
観光地の賑わいとは無縁の、静かな時間がそこにあった。
風呂を出た足でスーパーへ寄り、夕食の買い出しをする。
今夜の献立はシンプルだ。ステーキとサーモンの刺身、そしてウイスキーの水割り。
スキットルの中には、私の大好きなフォアローゼスを忍ばせてある。
白州の湧き水で割れば、それだけで最高の一杯になる。
夕暮れ時の河原に戻ると、スキレットの上で分厚いステーキがじゅうじゅうと音を立てる。
どうということもない、オーストラリア産のビーフだ。
だが、むしろそれがいい。
今まで特別な肉をいくつも食べてきた。だが、いい肉ほどどこか味気ない。
ワイルドな分厚い肉にライムと塩を振り、ナイフの刃でそのまま喰らう。
それが一番うまいのだ。
噛み締めた肉の旨味を、澄んだ湧き水で割ったバーボンで流し込む。
そろそろランタンに灯りを入れようか。
夕日が沈みきり、夜が完全に支配するその直前。
ほんのわずかな薄明かりの中で灯すランタンが、一番綺麗に輝く瞬間だ。
ガラス越しに揺れる光が、川面に映り、木々の影を揺らす。
昼の熱気も、夕食の余韻も、すべてが静けさに吸い込まれていく。
自然と人工、その境目をほんの一瞬だけ跨いでいるような時間を演出する。
やがて辺りは暗くなり、一人きりの孤独な宴は静かに幕を閉じた。
虫の声に耳を澄まし、星空を仰ぎながら、ただ余韻に浸る。
北杜の杜は、ほんのひとときの安らぎを与えてくれる場所だった。
忙しない日常から切り離され、流れる時間に身を委ねる。
その寸暇こそが、何よりの贅沢なのだと知った。
ココ最近二十代終盤にして血圧がバゴーン跳ね上がりましてショックを受けてるこの頃です。
食生活の乱れか、日頃のストレスかは不明ですが
思うに、踏ん張りすぎたわけですね
とりあえずここ一か月ぐらいかな?
負荷がかからぬよう新たな執筆を停止しております。
「お前は病院に行け」と阿部寛から脳内で説教されております。
あー、土曜日行ってくるか……
それまで耐えてくれよ、俺の身体。




