その7
円興寺の門を出ると、二人で山道を下ります。
特徴的と指摘されたローブは比叡山に着くまで孫十さんに預かっていただき、何処にでもいる村娘のような姿に扮しています
ローブを着ていないので足元を隠すことが出来ず、已む無く素足に草鞋を履いていますがやはりスニーカーとは履き心地に雲泥の差があります。
「大丈夫ですか?」
「ええ、ご心配なく」
ぎこちなく歩く私の様子にそう案じてくださる孫十さんを安心させようと、笑顔で返します
そのままゆっくりと山を下ると、やがて麓の村が見えてきました。
「ここは青墓宿です、今様で有名な地ですね」
今様……、聞いた覚えのある言葉ですが、なんでしたっけ……?
「平安の御代から鎌倉に至る頃に好んで歌われた物ですね、和歌と比べられ当時の今風と言う意味合いで付けられたのでしょう」
そう言って、一曲歌って見せますねと咳払いしながら言われました。
こんなに昔の世界でも歌を歌う前には咳払いするんだなぁとなんだか楽しくなってしまいましたが、孫十さんの歌を聞いて、思わず声をあげてしまいました
遊びを せんとや 生れけむ 戯れ せんとや 生れけん
遊ぶ 子供の声 きけば 我が身 さえこそ 動がるれ
「あっ、ごっしー!」
「えっ?ご……、なんです?」
「あ、いえ、ご、ごっしー、ら、かわ……、ほう、おう?」
ついついドラマを見ていたときの、母に教えてもらった渾名で発言してしまいました。
なんとか誤魔化せたでしょうか……?
「ああなるほど、そうですね、今の一節は後白河法皇が書き残された梁塵秘抄に出てくるものです」
……どうやらうまくいったようです
孫十さんの説明に相づちをうちながら、ほっ、と胸を撫で下ろします。
「後白河法皇の今様の師を勤めた乙前という方も、この青墓の出なのですよ」
ああ、聖子さんですね、なんて思ってしまいます
ですが、そんなドラマで見た歴史の人たちについて、過去の世界で説明されるっていうのもすごく不思議な気分になります。
この時代の人たちだって、私にとっては役者さんが演じる昔のお話の登場人物となる方々なのですから……
青墓宿は昔は、その、夜の女性等を中心に大層栄えたとのお話ですが、今は戦乱の世ということもありまして、往時ほどの繁栄は無いとのことです
またこの青墓で、長者と呼ばれる大炊氏の尽力で建てられたのが、先程までお世話になっていた円興寺となります。
またこの大炊氏は源氏と縁が深く、鎌倉幕府を開いた源頼朝、その父親の義朝、さらにその父親のダメ……、じゃなくて為義さんと、三代続いて強い結び付きがあります
そのせいでしょう、円興寺には義朝さんやそのお子、義平や朝長の供養塔が建てられています
和尚さんがあの兵隊さんたちに仰ったお言葉には、そういった背景があったということですね。
青墓宿を通り抜けると西へと進路を取ります
そのまま垂井、関ヶ原と通り不破関を越えて近江国、柏原まで進むのが今日の目標です。
予定ではおよそ二刻(四時間)ですが、慣れない草鞋履きの私にはもう少し時間が掛かるかもしれません
それに追手の警戒も必要な身ですので、寄り道を避け極力道を急ぎます。
「この辺りは昔、国分寺が有ったらしいのですが、もう随分前に衰退してしまったらしく今は当時の痕跡が僅かに残っているだけですね」
そう孫十さんが得意気に語られます
よく色々とご存じなのですね、と訊ねると円興寺の和尚さんに色々教えていただいたそうです。
孫十さんは元々武士の出ですので、将来武士に戻りたいと思ったときのためにと僧としての教養以外も教えられていたそうです
というのも、元々出家を志して円興寺へと入られた訳ではなくお父さんが戦死され他に縁者も残っていなかったことから、和尚さんが引き取ったという経緯があったそうなのです。
ですので、ここまでは小僧として所属しながらもまだ僧になると決めていたわけではなかったのですが、今回よい機会と言うことで比叡山で本格的な僧としての修業を受けることを決意されたとのことでした。
和尚さんとしては以前から孫十さんに僧としての道を歩んで欲しいと考えてはいたそうなのですが、やはりこの時代の武士として家を再興したいと願う可能性を考えると強くは進められなかったようですね。
「私の家は別に、そこまで拘るほどの家ではないですよ」
そう孫十さんが苦笑いされます。
「守護代斎藤家の支流で元を遡れば彼の藤原利仁にたどり着くと父は申していましたが、少なくとも私の代には土地も家来も無いに等しい貧乏武士でしたよ」
どう応えて良いかわからない私は、沈黙をもってその先を待ちます
ですが、孫十さんの言葉は思いの外あっさりとしたものでした。
「私は円興寺に迎えられ和尚様と出会い仏の道を教わりました、僧となり衆生を導くことに比べれば、世に前田の家一つ残すことになんの意味がありましょう」
晴れ晴れとした様子でそう語る孫十さんを眺めながら私は、彼がこの後比叡山で何を見聞きし、何を思うのか、不安になってしまうのでした。
垂井宿を抜けた私たちはそのまま関ヶ原を通り不破関へとやって来ました
関ヶ原と言えば私でも知っている有名な場所、関ヶ原の戦いの舞台ですね。
ただ、関ヶ原の戦いは徳川家康と石田三成の戦いだったはずですので、今よりずっと後のお話しでしょう
そもそもこの世界でも起きるとは限らないわけですが……
そう思っていると、この地ではそれ以前にも大きな戦があったと孫十さんが教えてくださりました。
「この辺りでは昔、壬申の乱の際に天武天皇の本陣があったと伝わっています」
壬申の乱……、聞いた覚えはありますが、よく覚えていません。
確か聖徳太子とか大化の改新とか、あの辺りの時代だったような……?
戦国時代や幕末はよくドラマなどでも取り上げられているので私でも少しは覚えがあることも多いのですが、あの辺りの時代についてはあまりそういった対象にもなっていないせいかよく分かっていません
ですので、素直に孫十さんの教えを乞います。
「壬申の乱というのは天智天皇の御子・大友皇子と、天皇の弟宮にあたられる大海人皇子が、天皇の死後にその後継を争って起こされた戦のことです」
天智天皇というのは大化の改新の実行者、中大兄皇子のことだそうです。
大化の改新で日本は古い体制から生まれ変わり新しい社会になったとくらいにしか理解していなかったのですが、実際にはその中大兄皇子=天智天皇の死後に後継者同士で戦争していたのだそうです
「この乱に勝利した大海人皇子が即位し後の天武天皇となられるのですが、その本陣となったのがここから南に見える山の辺りだと言われています」
言われるままに、その視線の先へと目を向けます。
私たちが後世、関ヶ原の合戦を思ってこの地を眺めるように、孫十さんたちこの時代の人たちもまた、遥か昔の歴史の中の乱の痕跡を眺めている
歴史と言うものがこうして続いていくんだな……
そんな思いに浸りながら、私たちは先を急ぎました。




