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始業式はつつがなく始まりつつがなく終わっていった。校長や生活指導を受け持つ教師や生徒会長やらが糞つまらない話をのたまい大半の生徒達は過ぎ去った夏休みに未練を感じつつ気もそぞろに聞き流していた。数百人いる生徒の群衆に紛れ那須野もやはりご多分に漏れずさっさとこの式から解放されたいと願っていた。
始業式が終わった後は教室に再集合し、担任の矢野秀一より新学期の挨拶及び連絡事項が伝えられ午前十一時を前にして今日は早くも下校の時間となった。高山は意気揚々と部活へ、それを見送った秋吉は那須野に別れを告げ帰宅の途に着いていった。那須野は一人で何をするでもなく自分の席で無為に時間を潰し、教室内にいた大半の生徒が居なくなった頃を見計らい「さて」と席を立った。
「明日の放課後、屋上で待ってる」
今からおよそ十時間と四十五分前に映画館で囁かれたそのセリフが廊下を歩く那須野の鼓膜の手前でリフレインする。十中八九単なる酔っ払いの戯言だろうとは思う。そもそもあの酔っ払いは『屋上』としか表現しておらずそれがこの学校の屋上のことかどうかは定かでない。けれど、あのちっこい酔っ払いは俺の在籍する学校、学年、出席番号、そして名前を知っていた。そうなってくると、そうそう無視出来るもんでもない。那須野はこのおよそ十時間と四十五分の間に幾度となく繰り返された思考を再び繰り返す。
何もないかもしれない。何かあるかもしれない。何かが、あって欲しい。価値観が引っ繰り返るような、世界が裏っ返るような出来事が。
ともかく今の自分に出来るのは、屋上へ向かうことだけだ。見知らぬ生徒達とすれ違う。那須野の歩行速度が自分でも気付かないうちに早くなっていた。
屋上へと通じる扉の前に那須野は立っている。このスペースには明かりもなく真っ昼間だというのに薄暗い。更には長い間使った形跡のないアルミ製のバケツやモップ、段ボール箱やロッカーが埃を被った姿で山積していて何処となく不気味な雰囲気を醸し出している。
那須野はドアノブへと手を伸ばす。ひんやりとした感触が手に障る。もし鍵がかかっていれば、この話はここでもう終わってしまう。ドアノブをひねる。くだらない日常が、また始まってしまう。短く息を吐き、力を込めてドアを引く。錆び付いた金属音を響かせ、扉が、ゆっくりと開いた。
屋上には、まだ夏が残っていた。
抜けるような青空。幅を利かせる入道雲。湿気を多分に含み緩く吹く風。当然だが夏休みが終わったからといって夏が終わるわけでもなく、残暑に区分される時分ではあるが暑さは真夏のそれとたいして変わらなかった。何者にも遮られることなく陽光の注ぐ屋上では殊更にそう感じる。降り注ぐ日差しに目を細めながら那須野は辺りを見回すが人気はなく、まだ誰もいないようだった。
時間潰しに、と那須野はフェンスの張り巡らされた屋上の縁へと歩いて行き、銀色をしたフェンスの網目越しに街を見下ろした。
絶景だった。
見慣れた街並み。通い慣れたコンビニも、うんざりしながら歩く通学路も、あの映画館も、どこもかしこも見知った建物の筈なのに、少し高さが変わっただけでまるで違った風景に見えた。恥ずかしい話だが、糞ったれだと思っていた自分の街が、那須野の目にはキラキラ輝いて見えた。
「良い景色でしょ」
突然の声に振り返ると、開け放された扉にもたれかかる人の姿が見えた。それは、映画館で出会った酔っ払いの少女だった。映画館の時と同じく黒縁眼鏡をかけているが、服装はあの時と異なりこの学校の制服を着ている。
「だけど、ドアを開けっ放しにしとくのはちょっと不用心かな」
少女は扉を閉め、那須野に歩み寄りながらそう言う。
二人は向かい合う。那須野の身長は百六十センチちょっとあり少女との身長差は十センチ以上になり、自然と少女が那須野を見上げる格好になる。
「同じ学校の生徒だったんだ」
那須野の言葉に少女は苦笑いを浮かべる。
「あー、やっぱりまだ気付いてないんだ……」
那須野は首を傾げる。少女は
「ま、仕方ないか」
と独りごちる。
「じゃあ、大ヒントね」
少女はそう言ってからゆっくりと眼鏡に手をかけ、そっと外した。
「あ……」
見覚えのある顔が、そこにはあった。
「お前、夏目か?」
「ピンポン、大正解。だけど、ヒントをあげすぎちゃったから高得点はあげられないかな」
九日市中学校二年二組出席番号十二番夏目真彩。
それが那須野の知る夏目の情報全てだった。もし出席番号が隣り合っていなければ出席番号すら知らなかっただろう。ろくに会話を交わしたこともなく、特にこれといって印象もない。例えばそれは、眼鏡をかけただけで顔を失念してしまう程に。
「悪いな、気付かなくて」
ばつの悪そうな表情を浮かべる那須野に夏目はかぶりを振る。
「いや、いいよ。むしろ私の作戦通りだから」
「作戦?」
「そう、作戦。クラス内で目立たなく振る舞おう大作戦。あんなクラスでさ、目立ったって良いことないじゃない? それにさ、女同士って色々あんのよ、特に目立つ存在になるとさ。だから私は教室の中では透明になろうって決めたの。さしずめ透明人間……いや、透明少女ってやつ。知ってる? ナンバーガールってバンドの名曲なんだけど」
那須野は呆気にとられていた。那須野にとって夏目とは地味で無口で全く目立たない存在だったのに、目の前に立つ少女は流麗に饒舌に喋っている。そのギャップを埋められぬまま、那須野はただ戸惑っていた。
「えっと、つまり、わざと目立たないよう演じてたってこと?」
「うん、そういうこと」
「その眼鏡も作戦の一環でかけたりかけなかったりしてんの?」
「ああ、コレ?」
夏目は手の中で眼鏡を弄びながら答える。
「いや、私裸眼だと視力悪いの。日常生活はどうにかこうにか送れるかな、って程度に」
「じゃあ何で学校では眼鏡かけないんだ? 色々不便だろうに」
「まあ、ね。だけどさ、ないんだよ、この学校には、視力を矯正してまで見たいものが。黒板だとかクラスメイトの顔だとか授業中に回される手紙だとか日直の名前だとか明日の時間割りだとかどうでもいいし、むしろ見たくないものばっかり。だから私は、ここでは眼鏡をかけないの。ぼやけたままの世界で十分なの」
夏目はくるりと身体を翻し、眼鏡をかけ、眼下に広がる街を見下ろす。
「ただ一つ、ここからの景色を除いて、ね」
夏目は那須野の方を向き、にいっと笑う。
こうやって素直に笑う夏目の顔を見るのは初めてだったし、むしろ、夏目にもちゃんと表情があるんだなあと那須野は夏目の笑顔を見つめながらぼんやりと感じていた。
「そういやさあ、俺を呼び出したのって、こっからの景色を見せる為?」
「ああ、そうだった、忘れてた」
ぽんと手を合わせ驚いたような表情を夏目は浮かべる。
「そのことなんだけど……っと、ちょっと待ってね」
学校指定の鞄に手を突っ込みまさぐる夏目。
「確かここに……お、あった」
と取り出したのはキリンラガービールの五百ml缶だった。夏目はそれのプルットプに人差し指をかけ、躊躇うことなく引く。カシュッという小気味良い音と共に泡が溢れだすと「おっとと」と言いながら夏目はビール缶の表面に付着した泡を短い舌で舐め取った。そして飲み口に唇を当て右手に缶を持ち左手は腰に当て勢いよく缶を持ち上げぐっぐっぐと喉を三回鳴らす。
「あー、やっぱこの為に生きてるよねー!」
実に爽やかな表情を夏目は浮かべる。
「キンキンに冷えてたら最高なんだけどねー。まあ学校にクーラーボックス持ち込むわけにもいかないし、多少温くても我慢しなくちゃだよね」
再び口を付け夏目はビールを流し込む。口の端からほんの少しビールを垂らしながら
「キミも飲む?」
と那須野にビールを差し出すが
「いや、遠慮しとく」
口の中に昨日の苦みが蘇った那須野は丁重に断り
「そう? んじゃ、私は遠慮なく」
残ったビールを一息に夏目は飲み干す。
「くぁー! やっぱ夏はビールだよね! っと、ごめんね、これ飲まないと調子出なくてさ」
「いや、ま、別にいいけど。んで、本題はなんなんだよ」
「そうだね、いい加減閑話休題して本編の話に入らないとね」
夏目は片手に空になった缶を持ったままフェンスにもたれかかる。
「私ね、昨日、知っちゃったんだ。映画を見てる時に、それはもう、電撃的にね。ああそうかそうだったのかって」
「だから、なんなんだよ、その知っちゃったものって」
進まぬ話に那須野は苛立つがそれを見越していたかのように夏目は笑顔を浮かべる。先程より頬が上気して見える。
「ふふ、ごめんね。勿体ぶるつもりは、まあ、あったけどさ。でも、もう言うよ。私ね、知っちゃったんだ」
夏目はそこで一拍置き、両手を大きく広げる。アルコールのせいで潤んできた瞳に陽光が反射してキラキラ光る。
「なんでも叶えることの出来る魔法の呪文を!」
那須野にはこの瞬間、世界の時間が全て静止しまったかのように思われた。
青空を見上げると飛行機雲を作りながらジェット機が大空を横切っていた。ああ、夏だなあ。
「頭おかしいと思った? キチガイだと思った? 白痴だと思った?」
空から目線を戻すとさっきよりも夏目が距離を縮めてきていた。潤んだ上目使いで那須野を見上げている。勘弁してくれよ、と那須野は思う。
「夏目さ、酒、控えた方がいいんじゃないか?」
「あ、やっぱり信じてないんだ」
「そりゃあいきなり酔っ払いにそんなこと言われて信じる方がどうかしてるだろ。信じて欲しいなら、信じてもらえるような説明を頼むよ」
「説明、って言われてもなぁ。昨日の映画館で最後にやってた短編映画を見てた時に急に脳内に降って湧いてきたんだよ。神様だか仏様だかお釈迦様だか知らないけど何様だかが私にそっと呪文を教えてくれたんだよ。それ以外に言い表しようがない」
「……そんな説明で俺を説き伏せられると思うか?」
夏目は頬を膨らませる。
「じゃあさ、キミは自分がどうして逆上がりが出来るか説明出来る? どうして自転車に乗れるか説明出来る? ある日ある時急に出来るようにならなかった? あの感じにすっごく近いんだよ。キミは逆上がりが出来て自転車に乗れる? なら、分かる筈だよ」
逆上がりも出来るし自転車にも乗れるがその論法は分からない。那須野はかぶりを振る。
「分かった、じゃあさ、実際にやってみてくれよ、その何でも出来る魔法ってやつを」
夏目は那須野から視線を逸らし小声で呟く。
「いや、呪文は一回こっきりしか使えないから、今は無理……」
夏目のセリフにうなだれた那須野は無言で扉の方へ歩き出す。
「取り敢えず校内で飲酒してたことは黙っとくからさ、ま、頑張れよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
夏目の声に耳を貸さず那須野は足早に校舎へと通じる扉へ向かう。後ろの方で夏目が何かでかい声で言っているが那須野はもう、それを聞く気にはなれなかった。
しかし、
「いいの? 本当にその扉をくぐって」
その言葉にドアノブを掴んだ那須野の手が止まる。
「その扉が何処に通じてるか、キミなら分かってるでしょ?」
那須野は答えぬまま、動きを止めている。
「学校だろ、なんてくだらない答えはしないよね? その向こうにあるのは、日常だよ。どうしようもなく憂鬱で、怠惰で、平穏で、常温で、この上なく糞ったれな日常だよ。それに対して何も疑問を抱かないクラスメイト達の中にまみれながら埋没して生きていかなきゃいけないんだよ。教室で私の名前出してたでしょ、聞こえてたよ。ううん、違う、怒ってるんじゃない。言いたいのはその内容。私を含め、夏休みの前と何か変わってた? 変わってなかったでしょ? 相も変らぬ日々がまた始まることに失望したでしょ? 絶望したでしょ? だったら、自分で何かを変えるしかない。何をどうしたらいいのかは分からないけれど、何かを絶対的に変えなくちゃいけない。それはキミも分かってる筈だよ。だから、キミも映画館に来てたんでしょ? 私も同じだよ。だから、キミには伝わると思った。だから、キミを呼び出したの。この私だけの秘密の場所に。ねえ、分かる? 伝わる? 聞こえる? 私の声が、私の心が」
那須野はドアノブから手を離し、ゆっくりと振り返る。那須野と夏目が離れた距離で再び向かい合う。夏目の表情は、真剣そのものだった。必死だった。焦燥に溢れていた。
「大人はきっと私のことを信じない。教師はきっと私のことを顧みない。だから私も大人を信じないし教師を顧みない。多分、いつかきっと私も彼ら彼女らと分かり合う日が来るのだと思う。分かち合う日が来るのだと思う。今の自分を苦笑いで振り返る日が必ずやってくる。だから、だからこそ、私には今しかないの。私には時間がないの。刻一刻とあちら側に進んでいっている。自分でも気付かない程早い速度で。事を成すには今しかないの。分かるでしょ? キミなら分かってくれるでしょ? 分からなくても、分かって!」
那須野はただ、じいっと夏目の目を見つめている。
夏目もただ、じいっと那須野の目を見つめている。
互いの額に汗が滲んでいる。
「私なら、キミに見せてあげられる。こんな糞ったれな世界じゃなくて、ここから見下ろす景色のような、素晴らしい世界を。その為の方法を、魔法を私は持っている。それは、私にしか出来ないことだよ? 二人でこの世界から逃げ出そう。私がキミを連れて行ってあげる。こことは違う、素晴らしい世界へ」
夏目はそう言って、那須野の方に右手を差し出した。
那須野はその場で一瞬逡巡し、額の汗を拭ってから夏目の方に歩き出した。
夏目の側まで寄ると、伸ばしたままの右腕がほんの少しだけ震えているのが目に入った。那須野は夏目に気付かれないよう少しだけ笑うと、夏目が左手に握ったままになっていたビールの空き缶を奪い取った。驚いた顔で見上げた夏目を無視し、那須野はそれを、目一杯大空にぶん投げた。夏の青空に吸い込まれるように空き缶の姿はみるみる小さくなっていく。綺麗な放物線を描き、フェンスを越え、グラウンドを越え、学校の敷地を越え、やがて見えなくなった。
呆気にとられ那須野の顔を見上げる夏目に那須野は言う。
「んじゃ、さっさと行こうぜ。糞ったれな世界とさよならして、素晴らしい世界へ」
夏目は、満面の笑みでそれに頷いた。




