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ムカついたので夏休みの最後の最後は映画を見てやろうと思った。
そう決心したのが午後九時半でレイトショーが始まるのが十時で家からチャリに乗って映画館までの所要時間が約三十分でつまりはギリギリだった。もう迷う猶予も余裕もないが、慎重さを決して忘れてはならないことも那須野隆は火照る脳ミソの片隅で冷静に理解していた。
まずはどうやって我が家から脱出するかだ。
「夏休みの宿題はきちんと夏休みの間に終わらせておきなさい」という母親の小言をこの年の夏休み最後の日――つまりは今日、全国で何人の中学二年生男子が耳にしただろうか。勿論那須野もご多分に漏れずその一人として加算されていた。要は軟禁状態だったのだ。といっても那須野の母、道子を筆頭に全国の母君諸氏が口にした小言は至極真っ当な訓告であり一学期の終業式から今日までの約一ヶ月半をさんざっぱら遊び倒し、だらけきっていた糞ガキ共にはぐうの音も正当性もなく軟禁は当然の帰結と言えた。
だからなんだっていうんだ。いやむしろだからこそ俺は一刻も早くここから抜け出さないといけないのではないだろうか!
憤懣やるかたないという風に那須野は鼻息を荒く吐き出す。やはり自分は一刻も早く映画館へ向かわねばならぬのだと。
別に那須野は母にのみ憤りを感じていたのではない。それもあるのだが、訳の分らない数字と記号が羅列された課題のプリントにも、その製作者でもある担任矢野秀一にも、ひいては教育を無理に推し進めてくるどこかの政治家にも腹を立てていた。まあ要は世間に掃いて捨てる程あるちっぽけな義憤だったのだが那須野本人にとってみればそれが全てなのでとにかくもう居てもたってもいられなかった。
那須野の部屋は姉の部屋と共に二階にあり階段を下って右に少し進めばすぐに玄関があるのだがその『少し』が問題なのであって、そこには主に母が過ごす和室があった。母が部屋に滞在している時に玄関を開ければすぐに音でばれてしまう。そうなれば脱出は失敗、己の部屋に連行されてしまうだろう。ならばどうするか。間隙を突くしかない。敵はただの人間で風呂にも行けば便所にも行く。その隙を突けばいい。普段なら母親が風呂や便所に行くという事実だけでウンザリして腹立たしく思う那須野だが今日ばかりはそれに感謝せざるを得ない。足音を殺し階段の一番下まで下り全神経を集中させ聞き耳を立てる。シャワー音。玄関とは反対方向から微かに水の弾ける音が聞こえ、それは正しくシャワー時に発せられる音であった。部屋を出る時にさり気なく様子を伺うとアコースティックギターの音色が聞こえ姉は自室に居るようだったし、親父はどこをほっつき歩いているのかこの時間に帰宅していることはまずない。天は俺を見放してはいなかった。いやむしろこれは神様か仏様か何者かが是非とも映画を見に行きなさいと行った粋な計らいなのではないかとさえ思える。無神論者でありながらこの時ばかりは絶対的な何かに感謝を捧げたい気分だった。が、そんな悠長なことをしている暇はない。もたもたしていては母が風呂から上がってきてしまう。そうなっては映画館への道は閉ざされてしまうし、何より風呂上りの母親を双眸に捉えるのは最悪だ。急がなくてはいけない。いいか、覚悟を決めろよ那須野隆、と自らに発破をかけ深く息を吐く。板張りの床を足の爪先で軽く叩きリズムを取る。集中力を高める。何か異常はないか五感を研ぎ澄ませる。――何も察知出来ない。つまりは正常。シャワー音は間断なく発せられている。覚悟を決めろよ那須野隆。
しばらくの間佇んでいた階段の陰から飛び出す。
足音を殺すことよりも一刻も早くこの廊下を駆け抜けることに全身全霊を注ぎながら駆ける。速い。研ぎ澄まされた精神と肉体がナノ単位で合致していることが実感できる。稲妻。次第に五感が消えていくのを感じる。余分な神経を排除し、ただ、走っている。何も見えないし何も聞こえない。最早行く手を阻むものは何もない!――筈だった。
「みゃあー」
声の主はホールデンでありホールデンは猫であり猫は茶トラのオスであり茶トラのオスは飼ってもいないのに勝手に我が家に出入りしているのでありともかくそいつが廊下の真ん中までほてほて歩いて来、今や首の辺りを右後ろ脚で掻きながら呑気に鳴き声を発していた。ヤバい、と思う余裕もなかった。このままではホールデンを蹴っ飛ばしてしまう。しかしながら停止は勿論減速も間に合わない。八方塞がりか。この瞬間、那須野はどうしたか。
跳んだ。
フルスロットルのスピードを保ったまま踏み切り、スーパーマンよろしく両腕を前に突き出し跳び出す。ホールデンの真上を那須野は飛び越える。それを確認した那須野は両手から地面に着地し首を丸め跳び込み前転の要領で床の上をくるりと回る。着地成功。ちなみに那須野はマット運動が大の苦手であり跳び込み前転を完遂したのはこの時が人生初だったのだがそれは後々気付いたことで、今は危機的状況を脱した高揚感にのみ全身浸っていた。
無事を確認する為に振り返るとホールデンは相変らす「ふみゃー」と呑気にあくびをしており安心したのも束の間那須野は極めて素早く置き上がり再び駆け出す。玄関に雑然と並んでいる靴群の中から自分のスニーカーを即座に選択し履いて玄関から外へ飛び出す。
外の世界は暗闇に満ちていた。
点在する家々から漏れる灯りや街灯が僅かばかりの光を供給しているが、それでもやはり夜の帳に包まれた街並みは暗い。那須野は玄関横に停めてあるチャリンコの鍵を素早く解錠すると即座にまたがりフルスロットルでスタートダッシュを切った。昼間と比べるとやや温んだ熱気と擦れ違いながら那須野はペダルを蹴る。一度だけ振り返り自宅の方を見たが特に変わった様子はなくただそこに在るばかりだった。