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 南会館に到着したのはレイトショーが始まる三分前だった。

 入口にある券売機でレイトショーのチケットを購入し自分が生まれるより遥か昔に製作された映画のポスターが張り巡らされた廊下を抜け那須野は便所に駆け込み勢いよく小便器に向って放尿を開始し辺りを一望する。狭くて、こ汚い。男子便所の扉は木製の割に重く、押し開けると軋む音が耳に障る。入ってすぐの所に和式便所の個室と洗面台があり奥に入ると小便器が三つ並んでいるのだが、その奥へ行く為の通り道がまた狭い。小太りの人間なら蟹歩きしなければ身体がつっかえてしまうのではないかと思う程狭い。また、隣接する女子便所とはベニヤ板を一枚隔ててあるだけというこの上ない程簡素な作りとなっている。那須野は小便を放出し続けながらこの便所が映画館そのものを象徴しているなと思う。南会館は潰れたパチンコ屋の二階にありその立地条件からしていなたいミニシアター系の映画館で、館内はどこもかしこも煤けていてこ汚くてとにかく狭い。見かける客達もヒッピー風、サブカルかぶれ風、映画オタク風等々といなたい人々が集まっている。那須野はそんな彼ら彼女らに根拠のない優越と侮蔑とほんの少しの羨望をもって心中で「俺は絶対にあんな風にはならないぞ」と悪態をつきながら放尿するのがこの映画館内での常になっている。

 元々那須野が映画館に通うになったのはとある小説がきっかけだった。何時ものように漫画を借りようと姉の部屋へ入った時にたまたま手に取った文庫本。何だか古臭く感じるタッチで描かれた女の子が表紙のその本を読んでみようと思ったのは全くの気まぐれで、小説及び活字に微塵も興味のなかった那須野にとってきちんと目を通した小説は物心ついてからはそれが初めてだった。

 この主人公とは正しく俺のことだ! 

 表紙をめくり数ページ繰った後に那須野は思わず叫んでいた。それは驚きと喜びと不可思議さに彩られた声色だった。これは俺の為の物語だ! そう確信するのにさしたる時間は要らなかった。狭い教室の中で蠢くクラスメイト達と自分は違う。何が違うのかは上手く言語表現出来ないが必ず違う何かを自分は持っている筈だ。小説の主人公も那須野もそう信じて疑わなかった。そしてその主人公はくだらないクラスメイト達との差異を証明する為に映画館に通っていると記されていた。他の奴らが愛だ恋だどうだこうだと時間を空費している間にも映画を鑑賞し時間を有効活用しているのだと。那須野はその日から映画館へ通うようになった。小説の中ではまだ一般化されていなかった携帯電話を使い最寄りの映画館と上映時間を調べ、すぐさまチャリンコに跨っていた。いてもたってもいられなかった。今まで自分に欠けていたピースはこれなのだと確信した。これで俺も何者かになることが出来るのだと。それからのここ数カ月間、時間と金をどうにか工面しながら那須野は映画館に通い続けたが、現状に特に変化はなく相も変わらず彼は九日市中学校二年二組出席番号十一番那須野隆でありそれ以上でも以下でもなくやはり何者でもなかった。変わったことと言えば、この南会館に通う常連たちの面を覚えたくらいで、あとはもう特に何もなかった。

 小便が途切れ身体が震え手を洗ってから便所を出ると、既に入れ替わりの時間になっており数人が入口の所に並んでいた。慌てて那須野も列に加わり、白髪でよぼよぼな爺さんの係員にチケットを見せ半券をもぎってもらい中に入った。

 この瞬間こそが映画館の醍醐味なのではないか。

 映画館特有の赤い防音扉をくぐり泰然自若と佇む馬鹿でかいスクリーンを覆う緞帳と対面した瞬間、那須野は毎回そう思う。ここは日常からかけ離れた異世界なのではないか、とも思う。前から三列目の真ん中辺りに腰かけ背もたれに身体を預け天井を見やると一面に女神とその周りを祝福するように複数の天使が羽ばたいている絵が描かれているのが目に映る。那須野は何時も上映が開始されるまでの僅かな時間、何も考えることなくただぼうっと天井に描かれたその絵画を眺めていた。それは外界から引き連れてきた思考を一旦リセットする為の儀式であり、三途の川を渡る船の上で揺られている心持ちで那須野はただただ顔を上げていた。

 館内に設置されている時計が上映開始時間の午後十時を指し示し灯りが落とされる。扉が閉められ係員の爺さんのしわがれた肉声でこれから始まる映画のアナウンスがされる。ゆっくりと緞帳が開く。那須野は視線を徐々に表れるスクリーンに向ける。


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