20.
飛ぶように景色が過ぎる。オーレックに抱えられながら、イーズはみるみる遠ざかる北の小屋と、どんどん近づく妃妾の棟とに視線を往復させた。地面をえぐるほどのすさまじい脚力にあっけにとられている間に、自室に着地する。
「やはり昔よりは衰えたな。年には勝てん」
「充分だと思うよ?」
悔しがるオーレックをなぐさめ、イーズは自室を漁った。引き出しから、ずっと昔にレギンからもらった金細工を探り出す。夜来香の入った細工物だ。二重構造になっていて、中筒をはずすと、透かし彫りの外筒だけになる。外筒に香を入れれば、簡単な香炉になった。
「これがあれば、レギンを穏便に止められるよね?」
「ああ。まったく、嫌なにおいだ」
まだ焚きもしないうちから、オーレックが顔をしかめた。イーズは匂わないよう、服の中にしまいこむ。廊下に出ると、向かいのローラの部屋が目に入った。半壊しており、棟の表で争う青い竜とシャールたちの姿が垣間見える。
「ローラ、無事かな。レギンが目の前で竜化したなら、危ないよね」
「あそこにだれかいるぞ」
内庭の隅に、妃妾の棟で働いている女たちが群れていた。中心にアニーとローラがおり、緊迫していた。怒り狂ったアニーが、ローラを責め立てている。
「なんてことをしてくれたのです! なぜあの香をレギン様に使ったりなどしたのですか! どこから手に入れたのです!」
「レ、レノーラさんが……パルマン嬢が」
「パルマン嬢? シグラッド皇子の情人ですね。そんな相手とどうして面会させたりしたのです!」
ローラについているクリムトの侍女たちは、アニーの剣幕にひっとおびえた。言い訳すら筋道だってできず、ただ右往左往する。アニーは盛大に舌打ちした。
「つまりあなたは、パルマン嬢を通じて、あの皇子にまんまとそそのかされて香を使ったと。そういうわけですね?」
「し、知らなったんです。その香が危険なものだなんて。パルマン嬢からは、本心を聞き出す薬だって聞いたんです」
「本心を聞き出すですって? なぜそんな薬を使う必要があるのです」
「仕方なかったんです! シグラッド皇子が暗殺者に襲われた、皇子はレギン様を信じていて、レギン様の差し金だとは思っていないけれど、どうにも不安だから、レギン様の本心が知りたい。皇子を助けるためだと思って協力して欲しいって頼まれて……」
「だから、よく知りもしない相手からもらった怪しい香を、婚約者に使うのですか!? げに恐ろしきは恋する女です。時にとんでもないことをしでかしてくれる」
「恋なんて。私はただ」
「今さら見苦しい言い訳はききたくありません。この恥知らず。レギン様に愛情を求めておきながら、あなたがシグラッド皇子に懸想していたことを、私たちが気づいていなかったとお思い!?」
草の踏む音に気がついて、アニーがイーズたちをふりむいた。黒竜と銀の仮面をつけた人物に、怪訝そうにする。
「なんです、あなたたちは」
「気にするな。通りすがりの黒い竜と、さすらいの銀の竜だ」
「銀の竜ですって?」
「兄弟げんかの仲裁にきてくださったのさ」
イーズは金細工をふった。藍色の丸い香がからからと音を立てる。アニーがまさか、と目を見開いた。
「どうしてそれを」
「そりゃあ、銀竜様だからな。森羅万象、有象無象のあらゆることをご存じだ」
イーズの持っている物がどんなものか知らなくとも、レギンにとって助けが来たのだと分かったらしい、ローラが必死の形相で、イーズの白銀の外套にすがりつく。
「お願いしますお願いします! 助けてください。レギン様を止めてください。私がバカだったんです。レギン様の愛情を疑って、シグラッド皇子へのあこがれを捨てられなかった私が」
「まったくだぞ。なんでレギンを愛情を疑ったりなんかするんだ。あいつは見ての通りのお人よしだっていうのに。赤竜なんかよりよっぽど優良物件だぞ」
オーレックがやれやれと頭をかく。ローラはうなだれ、ひっくと大きく喉をひきつらせた。
「……レギン様に誠意を見せられても、愛情を示されても、やっぱり不安だったんです。レギン様がアルカさんに見せる気遣いには、私にそそがれる愛情以上に深い愛情があったから」
「バカだな。人はどれだけ愛されたかより、どれだけ愛したことかの方が大事なんだ」
ローラは言葉もなく、後悔に涙を流した。イーズはそっと肩に手をおき、そばをはなれる。こうしている間にも事態は進行しており、ぐずぐずしている暇はない。
「行くか」
イーズはうなずき、ふたたびオーレックに抱えられた。壁のわずかな取っ掛かりを使い、オーレックは片腕で屋根へと上がる。
棟の表は、騒然としていた。咆哮と鬨の声が、破壊音と怒号とが交錯している。
すでにほとんどの召使は逃げ、いるのはゼレイアやシャール、飛竜隊、ティルギスの大使たちだ。竜化し、人の二倍はあろうかという大きさになったレギンに、鉄を編みこんで作った縄をかけ、拘束しようと奮闘している。
だが、青い竜はそうそう人の思い通りにはならない。尾や腕を振り回し、壁を壊し、彫像を倒し、石畳を割り、地面をえぐり、自分を捕えている縄から逃れようと暴れる。
シャールが正確無比な射撃で、わずかにうろこに覆われない部分に矢を射掛ける。すると、青い竜は銀の瞳を凶暴に光らせ、青い炎を起こして反撃する。
炎にシャールたちがひるむと、拘束がゆるむ。ゼレイアが勇ましく声を上げ、太い腕に満身の力をこめて、青い竜の抵抗をねじ伏せようとする。
「ふむ。どうやる?」
「とりあえず、夜来香に火をつけてもらっていい? オーレックは風上に立って」
オーレックは鼻を押さえながら、香に小さな紫色の炎を点けた。血や土ぼこりの舞う泥臭い光景には場違いな、さわやかな香りが立つ。
「アルカ、見ろ。真打ち登場だ」
人々から歓声にちかいどよめきがあがった。熱風に赤い髪をなびかせ、赤いうろこで身体をおおって、赤い竜の王が姿を現す。背には、巨大な剣を背負うようにして持っていた。
「何、あの大きな剣。あんなものがあるなんて」
「竜殺しの剣だよ。初代赤竜王を屠るために、赤竜王の息子が作らせた特別の剣」
「息子が……?」
「そう。初代赤竜王が父親を殺し、赤い竜たちの王になったように、息子も父を殺してニールゲンの王になった。ニールゲンの歴史は似たようなことの繰り返した。子が父を、弟が兄を――またはその逆を――倒して勝ち残る。もはや慣習だな」
「そんなこと、私がさせない。シグもレギンも、みんなまとめて幸せになるんだ」
イーズは拳を握り、地上を見据えた。
「全員、下がれ。私がやる」
シグラッドが命じると、ゼレイアたちは自分たちの握っていた縄を木や柱にかたく結びつけ、下がった。
新しい敵に、青い竜が咆える。シグラッドは得物の威力を試すように、自分の背ほどもある巨大な剣を振り回した。剣の刃はするどくなさそうだった。竜の硬いうろこの前では、刃は役に立たないので、鈍器のようにして使うつもりなびだろう。
狙うは胴体か頭部か。燃え盛る炎の中、金の瞳が激しい闘志をたたえて、青い竜をにらみつける。
「オーレック、私を二人の間に降ろして。オーレックはシグを、私はレギンを相手にするから」
「分かった」
オーレックはイーズもろとも、屋根から飛び降りた。予想外の闖入者に、シグラッドの対応が遅れた。蹴りを見舞われ、はでに蹴飛ばされる。
一方、イーズは噛み付こうとしてきた青い竜の牙を避け、その鼻先に香をつきつけた。怪訝そうにした青い竜は、やがて心地よさそうにまぶたを落とす。腕を垂れ、前のめりになり、おとなしくなる。オーレックが近くに落ちていた剣で、縄を叩き斬った。
「なぜ……それを持っている」
剣を支えに立ち上がったシグラッドが、香をにらみつけた。
「なんの権利があって私の邪魔をする!」
「仕方あるまい。我らが崇める銀の竜の命令だ」
イーズは身を反転させた。白銀の外套が夜風にはためき、銀のうろこの仮面が炎に照り返る。
「シグラッド、レギン、おまえたちはどちらも、まだ死ぬ運命にないのだとさ」
「知るかそんなこと! ここまできて、後に引けるものか!」
シグラッドはオーレックに向かって駆けた。横一線に振られた剣を、オーレックは軽々跳んで避ける。着地と同時に、その背をシャールの矢が狙う。オーレックは尾で叩き落したが、今度は腕に縄が絡みついた。ゼレイアだ。
「竜姫様、数十年ぶりに、お手合わせ願います」
「ふふ、いいよ。遊んでやろう」
オーレックは縄をつかむと、豪快に振り回した。ゼレイアの巨体が壁に激突する。シグラッドは将軍の名を呼んだが、ゼレイアはすぐにむくりと起き上がった。
「頑丈なのがとりえです。ご心配なく。どうぞ貴方様は目的を果たしてください!」
シャールの合図で、飛竜隊が抜剣する。
オーレックは外した縄を振り回した。縄が、ひゅんひゅんと物欲しげな音を立てる。多勢に無勢だが、そんなことは眼中にないらしい。するどい八重歯をのぞかせて、愉しげに笑っている。
「レギン様!」
状況が変わったと見て、それまで手をこまねいて見ているしかなかったレギンの側近たちが駆けつけてきた。ほとんど人の姿へと戻ったレギンを、棟の中へと運び込む。アニーとローラも走り寄ってきた。
「レギン様! しっかりなさってください!」
香がよく効いているのか、レギンの目は茫洋としていた。イーズは香を、むかってくるシグラッドに投げた。途端、シグラッドは鼻を押さえて跳び退る。
「銀の竜だと? ふざけたことを!」
シグラッドの怒りは炎となって具現した。が、火鼠の外套は炎になんなく耐え、イーズは無傷で残る。外套の効能を知らないシグラッドが、幻でも見ているかのような顔をした。
「あの謀反人を捕らえなさい! 殺して構いません!」
アニーが叫ぶと、わずかに駆けつけてきていた近衛兵が、シグラッドに刃を向けた。レギンの側近たちは、主人をさらに奥へ奥へと逃がす。だが、シグラッドを足止めしても、数名の飛竜隊が追ってくる。
「――危ない!」
レギンをかばおうとして矢に撃たれたのは、アニーだった。
「早く中に!」
傷を押さえながらも、アニーは気丈にレギンたちを部屋の中へと急かす。側近たちが慣れない手つきで抜剣するが、よく訓練された兵にかなうはずもない。敵はみるみるうちに迫ってくる。イーズはアニーと共に、最後に部屋に入り、硬く扉を閉じた。側近たちと協力して家具を動かして、扉を防備する。
「レギン様、レギン様、しっかりなさってください!」
ローラが手を握り、レギンに呼びかける。だが、レギンの意識はまだ宙をさ迷っているようだった。イーズが何度もかるく頬を叩いていると、アニーが進み出た。思い切りレギンの頬をひっぱたく。
「しっかりなさい! レギン=カルマサス=フレイド! それでも猛々しく雄々しい竜の末裔ですか!」
耳元で、アニーが痛みに脂汗をかきながら叫ぶ。レギンの顔が、ぴくりと動いた。
「さあ、起きて! 起きなさい! もう寝ている暇はありませんよ! 戦いなさい!」
「……あいつの……勝ちだ」
「なんですって?」
「いい加減、あきらめろ、アニー。赤い竜の国に青い竜の王なんて、もともとおかしな話だ。無理して僕を王座に据えてどうする。これでようやく間違いが正される」
レギンがつかれたようにいった。全ての気力を身体から吐き出すような、深い吐息が口から漏れた。アニーは息を吸い、血がにじむほど唇を噛む。全身に力をこめ、腹の底から怒鳴る。
「何が間違いですか! 何が! 私は貴方に王になって欲しいのです! 王でなくともいい! せめて生きてください! 最後まで!」
いつもガラス玉のように無機質な夫人の目から、透明な雫がこぼれおちた。レギンの白く青ざめた頬をぬらす。
「貴方の未来を占い師に占わせたことがありました。占い師は、貴方がいずれニールゲンの王になるといった。私は嬉しかった。せめて王になるまでは、病弱な貴方が生き延びるだろうと思ったから」
いくつものしわの刻まれたアニーの手が、レギンの頬をやさしくなでる。我が子をいとおしむように。
「生きてください。どうかこんなところで死なないで」
アニーは覆いかぶさるように、レギンの頭を抱いた。イーズも、ローラも、だれもが黙って、二人のやり取りを見守っていた。
しかし、ふと気づけば、何か焦げ臭い。イーズは周囲を見回した。扉の下のわずかな隙間から、黒い煙が侵入してくる。蛇の舌のように、赤い炎もちろちろ顔をのぞかす。
火だ、とレギンの側近がおびえた。扉をふさぐ家具に炎が燃え移った。邪魔者をすべて浚えたシグラッドが、扉一枚向こうに迫っていた。
「……戦え、か」
おもむろに、レギンが立ち上がった。ローラにアニーを託し、赤い炎の前に立つ。
「僕の星はまだ燃え尽きていないのかな、銀の竜?」
イーズはうなずき、レギンの手を握った。レギンが次に目を開いたとき、瞳はあざやかな銀に変わっていた。
赤い炎が青く生まれ変わる。レギンの足が燃える家具を蹴飛ばし、手が炎を裂いた。足元に残るわずかな炎を踏み越えて、青い竜の王が赤い竜の王と対峙する。
「よくもやってくれたな、シグラッド」
「よくもやってくれたな、レギン」
シグラッドも、レギンも、それぞれ、言葉もなくただにらみ合っていたが、いきなり、お互いに対して拳をぶつけた。力は互角だった。二人とも、同時に地面に尻餅をつく。
「……ふふっ」
「……ははっ」
座り込んだまま、二人は肩を震わせはじめた。笑いはだんだん大きくなり、とうとう腹を抱えて笑い出す。
「なあ」
「なんだよ」
「私はおまえが大っ嫌いだ」
「僕もだよ。いっつも無茶ばっかりしてくれて。親戚とアニーとマギーをなだめる苦労を知れ」
「ふん、八方美人のいい子ちゃんめ。そうやって皆からかわいがられて、いっつもおいしいところを攫っていくんだ」
「なにがおいしいもんか。君は自分の欲しいものを、自分の望んだものをちゃんと手に入れるじゃないか。健康にも才能にも魅力にも恵まれて。君のがだれもが羨む人生だろ」
「陰で私がどれだけ努力してると思ってるんだ。毎日毎日綱渡りで必死に生きてるんだぞ。おまえなんて生まれてこの方、命を狙われたこともないくせに」
「あるよ。あるさ。たった今、狙われてる。君にね!」
「ああ、ああ、そうだよ。狙っているんだ。おまえをな!」
二人は思い切り、お互い相手に頭突きをくらわせた。これも威力が対等だったらしい。駆けつけてきたオーレックが、そろって伸びてる二人を見下ろし、あきれた顔をする。
「何やってんだ? こいつらは」
「兄弟喧嘩」
イーズはしゃがむと、二人の額をやさしくなでた。天にむかって、そっと息を吐く。澄んだ藍色の夜空に、星々が地上を見守る瞳のようにまたたいていた。




