第十四話 クリスの日記
――黒色の世界。
それは、今まで見たことが無いほどに不気味な世界だった。
鼻孔に纏わりつき、むせかえるようなその臭いが何のものなのか。瓦礫が行く手を阻むこの場所で、私は何処へ向かえばいいのか。
それでも私は歩き続ける。
元の世界に帰りたい。お家へ帰りたい。その思いだけで、感覚が薄れてきた足を動かし続ける。
――熱い。
暗くて周りもよく見えない。心の底から不安がこみ上げてきて、私はそれを必死に堪えていた。元の世界に帰る道を探すために、涙が溢れそうになるのを必死に耐えて、前を見つめていた。
でも、私は見つけてしまった。
壊れたお家と、その下に転がっている○○さんと○○さんの変わり果てた姿を。
そのとき私は知ってしまったのだ。もう私たちに帰るべき場所はないのだ。帰るべき幸福な世界はないのだ。
その瞬間、私の目から溢れ出したのは涙ではなかった。私の口から出たのは叫び声ではなかった。
多分、私の身体から抜け落ちたのは「命」だ。私は確かにこのとき死のうとした。
ふらつく足取りで教会に戻ったのは、教会を死に場所に選んだからだ。
私は崩れかけた教会の中で、ゆっくりと寄りかかった。
――誰に?
「彼女」の身体はあたたかかった。
――「彼女」って誰?
見れば、私が寄りかかっている彼女は私と同じ姿をしている。彼女は私だ。では私は誰なのか?
――彼女は本当に私なのか?
違う。彼女は私ではない。では彼女は誰だ?私の姿をしている彼女は――
「ねぇ、もう死んじゃおっか?」
夢の中の私が言った。
「死んじゃ駄目だよ、おねえちゃん。きっと「あの人」が助けに来てくれるよ……」
「もう無理だよ。きっと「あの人」も来てくれないよ……」
「絶対に来てくれる。だから、諦めないで……」
――だけど私は諦めてしまった。
記憶を全て置き去りにすることで、彼女を見捨ててしまった。
彼女は誰だ?
彼女の名は――
記憶扉の開錠。
あのとき、真珠の都が終わったときから、私の運命は歪んでいたんだ。私はその歪みから目を背けてはならなかっ悪夢のような記憶が奔流となって襲ってくる。これは夢なのだろうか。違う。きっとこれは現実なのだ。今まで私が目を逸らし続けた現実。きっと私が見てきた綺麗な世界の下で、どろどろに澱んだ膿がどんどんと蓄積され続けていたのだ。それが、今、抑えきれなくなって目の前に現われた。
そうだ。た。私はヴァネッサを見捨てた。大切な自分自身の片割れをッ――!あぁ!私はッ!
私はヴァネッサを見捨てた。
私はヴァネッサを見捨てた。
私はヴァネッサを見捨てた。
私はヴァネッサを見捨てた。
私はヴァネッサを見捨てた。
私はヴァネッサを見捨てた。
私はヴァネッサを見捨てた。
私はヴァネッサを見捨てた。
私はヴァネッサを見捨てた。
私はヴァネッサを見捨てた。
私はヴァネッサを見捨てた。
私はヴァネッサを見捨てた。
私はヴァネッサを見捨てた。
私はヴァネッサを見捨てた。
私はヴァネッサを見捨てた。
私はヴァネッサを見捨てた。
私はヴァネッサを見捨てた。私はヴァネッサを見捨てた私はヴァネッサを見捨てた私はヴァネッサを見捨てた私はヴァネッサを見捨てた私はヴァネッサを見捨てた私はヴァネッサを見捨てた私はヴァネッサを見捨てた見捨てた見捨てた見捨てた見捨てた見捨てた見捨てた見捨てた見捨てた見捨てた見捨てた見捨てた見捨てた見捨てた見捨てた見捨てた見捨てたああああああああああああああああああああああああああああ――!!
――ばいばい
これは、私に対する罰だ。私は今までどうしてのうのうと生きてきたのだ!彼女のことを忘れ、大切だった父母ののことも忘れ!のうのうと生きてきた!どうして!どうして、思い出せなかった!違う!私は思い出せなかったんじゃない!思い出そうとしていなかった!思い出すのが恐かったのだ!あぁ、どうして、どうして私は――!
ダメだ!思考に呑み込まれてはいけない。崩れ落ちるのはまだ早い。まだ、ヴァネッサは生きているとロイは言った。ならば、まだ懺悔をすべきときではない。
私はロイの胸にギュッと掴み、そこに頭を押し付けた。彼の心臓の鼓動が、私のぐちゃぐちゃになった頭を落ち着かせる。ゆっくりと息を吸って、目を閉じる。ずっとこのまま身を委ねていたかったが、私は一人で歩かなければならないと思った。
「ロイ、降ろして。もう一人で走れるから――」
私はロイから降りると、急に足場がぐらつくのを感じた。今まで確かだと思っていたものが崩れ落ちる感覚。世界は自分が思っているよりもとても不安定で、私はバランスを失ってしまう。一歩先があるのかも分からない。それでも私は進まなければならない。私はそのことに途方もない恐怖を感じた。
「お嬢様――」
後ろにロイの存在を感じる。人が近くにいるということが、これほどまでに支えとなるということを私は知る。そして、私はヴァネッサの支えにならなければならなかった。私はヴァネッサを孤独にしてしまった。せめて、今すぐ彼女の元へ駆けつけよう。そして謝ろう。
「あぁ――」
だが、私の目の前に異形が立ちはだかった。顔がぐしゃぐしゃに潰れた化け物が、暗闇の中に立っていた。
「……あれは、何?」