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冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―  作者: 唯 さらら
第一章 掌中の鳥 ~ 第一幕 帝国の象徴 ~
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3 小さな証

── 西方街道・宿場町 ──


翌朝、王女はまだ夜明けの鐘が響く前に目を覚ました。

粗末な藁の寝床は背に痛みを残したが、久方ぶりに心は静かだった。


階下へ降りると、すでにマルタが大きな捏ね鉢に腕を突っ込んでいた。

粉が舞い、汗が額を光らせている。


「おや、おはよう。お嬢さん……いや、今日からは手伝いだね」


マルタは笑みを浮かべ、棚を顎で指し示した。

「ほら、あの籠に並んだ皿を拭いておくれ」


王女は頷き、言われた通りに動いた。

だが慣れぬ手は相変わらず危なっかしい。

皿は落としかけ、布巾は水を滴らせ、粉袋に手を伸ばせば白い雲を撒き散らす。


「ひゃっ……!」


慌てて布で拭う王女の姿に、マルタはまたも笑い声を洩らした。


「まったく、あんたを見てると退屈しないよ」


王女は顔を赤らめる。


やがて、朝の鐘が鳴る頃、パン屋の戸口が開いた。

粉の香りに誘われて、馴染みの客が次々と顔を覗かせる。

その中の一人、荷車引きの男が、店先でおぼつかぬ手つきで掃除している王女を見て、ひょいと眉を上げた。


「おや? マルタさん、見慣れねえ娘だな。どこの子だい?」


王女はぎくりとする。

心臓が喉まで競り上がるような感覚に、思わず視線を伏せた。


マルタは粉まみれの腕を腰に当て、にやりと笑った。

「遠縁の娘さ。ちょっと訳あって、しばらく預かることになってね」


男は「へー」とうなずき、それ以上は聞かずにパンを買っていく。


その背を見送りながら、マルタは小声で王女に囁いた。

「ま、心配いらないよ。もし厄介ごとが来ても“知らぬ存ぜぬ”で突っぱねるだけさ。だから安心して働きな」


言い終えると、片目をつぶり、目尻に笑みを浮かべてみせた。


王女は小さく息を呑んだ。

胸の奥に広がる熱に、不意を突かれたように立ちすくむ。

その温かさをどう扱えばよいのか分からず、唇がかすかに震えた。




 * * *




そうして幾日かが過ぎた。


昼下がりの通りには、荷馬車の車輪が軋み、商人の呼び声と子供の笑い声が入り混じっている。

王女は両腕に小麦袋を抱え、粉で白くなった指先を気にしながら店の奥へと運んでいく。


最初の頃は一歩歩けばよろめき、皿を割りそうになっては冷や汗をかいた。

だが幾日かが過ぎるうちに、桶の水もこぼさずに運べるようになり、布巾の扱いも少しずつ板についてきた。


「おや、今日は上手くやったじゃないか」

マルタが笑いながら声をかける。


夕刻、焼き上がったパンを並べると、馴染み客が次々と訪れる。

王女が袋に詰めて手渡すと、客は気さくに礼を言い、時に世間話を投げかけてくる。


その日も、一人の若い母親が子供を連れてやって来た。

幼子が王女の手から袋を受け取ろうと伸ばしたが、重みによろめく。

慌てて支えてやると、母親がにこりと微笑んだ。


「助かったよ、お嬢さん。ありがとう」


たった一言。

それなのに、胸の奥で何かがかすかに震えた。


理由はわからない。

ただ、知らない誰かが自分を見て、声をかけ、笑みを向けてくれる。

それだけのことが、妙に鮮やかに心に刻まれる。


(……どうして、こんな気持ちに……?)


市場の子供たちは彼女に手を振り、時折いたずらっぽく「おねえさん、粉まみれだよ」と笑った。


ほんの短い一言、ささやかな笑い。

それらが胸に触れるたび、王女は言葉にならないざわめきを覚えた。


自分がここに「いる」。

そんな感覚を、これまで知らなかったことに気づきかけて――すぐに戸惑いを抱く。


故国でも、帝城でも、彼女はただ「駒」として存在し、与えられた枠の中で息をしていただけだった。

自分という輪郭など持たぬまま、ただ外から与えられる役割に埋もれていた。そして、そのことに何の疑問も持たずに生きてきた。


けれど――あの夜、胸をかきむしるような焦燥に駆られたのは、きっとそのためだった。


あのまま、あの場所にいたら、呼吸さえ自分のものではなくなってしまう。

声は薄れ、思いは削られ、やがて自分という形そのものが消えてしまう。


まるで籠の中で羽をむしられる鳥のように。

羽音を忘れた瞬間、ただの飾りに成り果てる――そんな予感が、喉を締めつけるように迫っていた。


言葉にはならなかった。

けれど本能だけが、それを危機と告げていた。

「逃げろ」と。


だからこそ今、見知らぬ人々の間で、ただ笑みを向けられるだけで胸が震える。

ここに息づいている――そう告げられたような気がして。




 * * *




日々はあわただしく流れ、気づけば町にも冬が訪れていた。

朝の空気は白く凍り、吐く息が小さな雲のように漂う。

寒さに人影は少し減ったものの、雪はほとんど降らず、通りには人々のざわめきが絶えてはいなかった。


月に一度の市が立つ日。

広場には露店が並び、野菜や布切れを抱えた人々が行き交っていた。


王女はマルタに頼まれ、籠を抱えて人波に混ざって歩く。

すれ違う人の肩が軽く当たり、振り向けば「悪いね」と笑って通り過ぎていった。


足元では子供が走り抜け、商人たちは声を張り上げて値を競り合う。

そのざわめきの中で、王女はふと胸の奥に小さな響きを覚えた。


(……私も、この人々の中にいる)


特別なことではない。

ただ籠を抱えて歩き、ぶつかれば謝られ、誰かの笑い声に混ざる。

それだけのことが、妙に鮮やかに心に残った。


手袋の下では、荒れた指先があかぎれに裂けて痛んでいた。

けれど、その痛みすらも不思議と苦にはならなかった。

それはこの町で暮らしている証であり、ここに確かに「自分がいる」ことを刻む小さな印のように思えた。


王女は冷たい風に頬を刺されながら、胸の奥でその感覚をそっと抱きしめていた。

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