表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―  作者: 唯 さらら
第一章 掌中の鳥 ~ 第一幕 帝国の象徴 ~
3/167

2 温かな手

 ── 西方街道・宿場町 ──


 王女は人々のざわめきの中をふらついていた。

 靴底が石に貼りついて、脚が自分のものではないように遅れる。舌が乾いて上顎に張りつき、唾のない口の中が熱い。

 看板の文字が滲み、石畳の目地がゆらりと波打った。


 ——そのとき。


 ふわりと焼けた小麦の匂いが流れてきた。

 湯気の温かさが鼻の奥に触れた瞬間、腹の底がきゅっと縮まった。


 気づけば、石造りの小さな店の前に立っていた。

 木の看板に刻まれた麦の穂が、昼の陽に白く照らされている。開け放たれた扉から、粉の匂いと細い湯気がゆらりと漂っていた。


 王女の視線はその向こう、棚に積まれた丸いパンの方へと吸い寄せられていった。


「どうしたい、お嬢さん」


 店の奥から、少し張りのある声が飛んできた。

 王女ははっとして、声の主に視線を向けた。


 かまどのそばに、丸みを帯びた体つきの女が立っていた。腕まくりした手は粉で白く染まっている。

 女は額の汗をぐいと拭うと、言葉を続けた。


「旅のお方かい? えらくお疲れのようだね」


 王女は喉を鳴らした。

 外套の内、指先が触れる銅貨は、数えるほどしか残っていない。パンを選べば今夜の寝床は消え、どこかの納屋の隅で身を縮めるしかなくなる。

 ──それでも、どちらを選んだところで、残った銅貨でつなげるのは、せいぜい明日まで。

 売れる指輪も、頼れる名も、もうどこにも残っていなかった。


(……何も、浮かばない)


 何か返さねば、と唇が動きかける。けれど言葉にはならず、視線だけがパンに貼りついて離れなかった。


 女はふっと手を止めた。

 粉だらけの手を前掛けでひと拭きすると、棚の方へ歩み寄り、丸パンをひとつ取り上げた。それを王女の前まで持ってきて、ぬっと差し出す。


「代金はあとでいいさ。腹が減ってちゃ、道も歩けやしないだろ」


 王女は目を見開いた。差し出されたパンと、女の顔を交互に見る。張り詰めていた何かが音もなく緩み、目の奥が熱くなる。

 おそるおそる、パンに手を伸ばしかけ──その手をぎゅっと握り込んだ。


「……お代を払えないので、代わりに働かせてください」


 女は目を丸くする。やがて声を立てて笑った。

「律儀なお嬢さんだね。いいさ、掃除でも皿洗いでも手を貸してくれるなら」


 王女は小さく頷くと、そっとパンに手を伸ばして口に運ぶ。

 ほろりと柔らかく崩れた生地は、乾いた口の中でもつれ、喉奥でつかえた。思わず、胸のあたりを軽く叩く。

 女は何も言わず、卓の端に水の入ったコップを置いた。

 王女は両手でコップを包み、ひと口、口に含む。冷たい水に押されて、ようやくパンがゆっくりと喉を降りていった。

 ——温かなパンの甘さが、空腹の身体に、じわりと沁み渡った。


 食べ終わると、女に言われるまま、王女は桶の水を運び、棚を拭き、皿を洗った。

 だが慣れぬ手つきは危なっかしく、桶の水は半分こぼし、布巾はびしょ濡れにして棚を水浸しにし、皿は落としかけてあわてて抱きしめる。


 その様子に、店先の子供がけらけらと笑った。

 腕を組んで眺めていた女も、堪えきれずに笑いながら言った。


「皿より自分が割れそうだねぇ」


 王女は顔を真っ赤にして唇を噛み、必死に口を引き結んだ。

 それでも手を止めず、黙々と動き続ける。


 女は大きくため息をつきつつも、目尻には柔らかな笑みを浮かべていた。


 やがて西の空は茜に染まり、店先の喧騒もひと段落した。

 片付けを終えた王女は、濡れた布巾をたたみながら小さく頭を下げる。


「……手伝うつもりで、かえってご迷惑をおかけしてしまい、すみませんでした」


 頬を紅潮させ、視線を伏せたまま言葉を継いだ。

「パンのお礼も……これでは十分に返せなかったと思います」


 女は布巾を受け取り、じっと王女の顔を見た。

「……ふん、真面目なこと言うねぇ」


 王女は外套の裾を整え、店の扉に手をかける。


 女は布巾で作業台を拭きにかかり──ふと、手を止めた。

 王女の背に向かって声を上げる。


「あんた、今夜泊まるところはあるのかい?」


 王女は立ち止まった。

 けれど答えは返せず、ただ沈黙が落ちる。


 女は片眉を上げ、さらに問いを重ねた。

「じゃあ、どこへ行くつもりなんだい? 道の先に、誰か待ってるのかい?」


 王女の唇が震えた。

 だが、返す言葉はどこにも見つからない。喉にかかった声は、ただかすれて消えていった。


 女は大きくため息を洩らした。

「まったく……放っておけないねぇ」


 そして扉に手をかけたままの王女に向かって言った。


「空き部屋があるからね。あんたがこれから部屋の掃除や店の手伝いをしてくれるなら、しばらく居てもらってかまわないよ。寝床代くらいにはなるだろうさ」


 扉にかけた手が、ぴたりと止まった。王女はゆっくりと振り返る。

 視界がにじんだが、唇を引き結び、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 女はふっと笑い、手を拭きながら言った。

「そうそう、名乗ってなかったね。あたしはマルタ。この店を一人で切り盛りしている。……よろしく頼むよ」




     * * *




 マルタに案内され、王女は二階の小さな部屋に通された。

 蝋燭の灯がほのかに揺れ、部屋には粉の甘い匂いが染みついていた。窓は小さく、壁は煤で黒ずみ、寝床は藁を詰めただけの粗末なものだった。


 王女は外套を脱ぎ、藁の上に身を横たえる。

 背にちくりとした痛みが走る。だが、帝城の冷たい寝台に押し伏せられていた夜よりも、はるかに心は安らかだった。


(……生きて、ここにいる)


 そう思うだけで、目の奥が熱くなる。

 自由とはまだ遠く、行く先も定まらない。

 それでも、追われる足を止め、身の危険を案じずに目を閉じられる──

 そんな夜に辿り着けたこと自体が、今の王女には、何より尊かった。


 だが、その安らぎに身を委ねかけた瞬間、別の感覚が静かに目を覚ます。


 ──逃げられるものなら、逃げてみろ。


 耳に残る低い声。

 幾度となく訪れた夜に、重くのしかかった影は、まだ胸の奥に生きている。

 見つかれば、捕らえられるだけでは済まないだろう。そう思った瞬間、闇の奥から、あの手が這うように伸びてきた。

 王女は藁の感触を指先で確かめ、震える吐息を押し殺した。


 それでもいつしか、静かに眠りに落ちていった。


 何も起きないと知ったまま、身構えずに眠りにつける──

 それは囚われの日々には決して許されなかった、ささやかな自由だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ