2 温かな手
── 西方街道・宿場町 ──
王女は人々のざわめきの中をふらついていた。
靴底が石に貼りついて、脚が自分のものではないように遅れる。舌が乾いて上顎に張りつき、唾のない口の中が熱い。
看板の文字が滲み、石畳の目地がゆらりと波打った。
——そのとき。
ふわりと焼けた小麦の匂いが流れてきた。
湯気の温かさが鼻の奥に触れた瞬間、腹の底がきゅっと縮まった。
気づけば、石造りの小さな店の前に立っていた。
木の看板に刻まれた麦の穂が、昼の陽に白く照らされている。開け放たれた扉から、粉の匂いと細い湯気がゆらりと漂っていた。
王女の視線はその向こう、棚に積まれた丸いパンの方へと吸い寄せられていった。
「どうしたい、お嬢さん」
店の奥から、少し張りのある声が飛んできた。
王女ははっとして、声の主に視線を向けた。
かまどのそばに、丸みを帯びた体つきの女が立っていた。腕まくりした手は粉で白く染まっている。
女は額の汗をぐいと拭うと、言葉を続けた。
「旅のお方かい? えらくお疲れのようだね」
王女は喉を鳴らした。
外套の内、指先が触れる銅貨は、数えるほどしか残っていない。パンを選べば今夜の寝床は消え、どこかの納屋の隅で身を縮めるしかなくなる。
──それでも、どちらを選んだところで、残った銅貨でつなげるのは、せいぜい明日まで。
売れる指輪も、頼れる名も、もうどこにも残っていなかった。
(……何も、浮かばない)
何か返さねば、と唇が動きかける。けれど言葉にはならず、視線だけがパンに貼りついて離れなかった。
女はふっと手を止めた。
粉だらけの手を前掛けでひと拭きすると、棚の方へ歩み寄り、丸パンをひとつ取り上げた。それを王女の前まで持ってきて、ぬっと差し出す。
「代金はあとでいいさ。腹が減ってちゃ、道も歩けやしないだろ」
王女は目を見開いた。差し出されたパンと、女の顔を交互に見る。張り詰めていた何かが音もなく緩み、目の奥が熱くなる。
おそるおそる、パンに手を伸ばしかけ──その手をぎゅっと握り込んだ。
「……お代を払えないので、代わりに働かせてください」
女は目を丸くする。やがて声を立てて笑った。
「律儀なお嬢さんだね。いいさ、掃除でも皿洗いでも手を貸してくれるなら」
王女は小さく頷くと、そっとパンに手を伸ばして口に運ぶ。
ほろりと柔らかく崩れた生地は、乾いた口の中でもつれ、喉奥でつかえた。思わず、胸のあたりを軽く叩く。
女は何も言わず、卓の端に水の入ったコップを置いた。
王女は両手でコップを包み、ひと口、口に含む。冷たい水に押されて、ようやくパンがゆっくりと喉を降りていった。
——温かなパンの甘さが、空腹の身体に、じわりと沁み渡った。
食べ終わると、女に言われるまま、王女は桶の水を運び、棚を拭き、皿を洗った。
だが慣れぬ手つきは危なっかしく、桶の水は半分こぼし、布巾はびしょ濡れにして棚を水浸しにし、皿は落としかけてあわてて抱きしめる。
その様子に、店先の子供がけらけらと笑った。
腕を組んで眺めていた女も、堪えきれずに笑いながら言った。
「皿より自分が割れそうだねぇ」
王女は顔を真っ赤にして唇を噛み、必死に口を引き結んだ。
それでも手を止めず、黙々と動き続ける。
女は大きくため息をつきつつも、目尻には柔らかな笑みを浮かべていた。
やがて西の空は茜に染まり、店先の喧騒もひと段落した。
片付けを終えた王女は、濡れた布巾をたたみながら小さく頭を下げる。
「……手伝うつもりで、かえってご迷惑をおかけしてしまい、すみませんでした」
頬を紅潮させ、視線を伏せたまま言葉を継いだ。
「パンのお礼も……これでは十分に返せなかったと思います」
女は布巾を受け取り、じっと王女の顔を見た。
「……ふん、真面目なこと言うねぇ」
王女は外套の裾を整え、店の扉に手をかける。
女は布巾で作業台を拭きにかかり──ふと、手を止めた。
王女の背に向かって声を上げる。
「あんた、今夜泊まるところはあるのかい?」
王女は立ち止まった。
けれど答えは返せず、ただ沈黙が落ちる。
女は片眉を上げ、さらに問いを重ねた。
「じゃあ、どこへ行くつもりなんだい? 道の先に、誰か待ってるのかい?」
王女の唇が震えた。
だが、返す言葉はどこにも見つからない。喉にかかった声は、ただかすれて消えていった。
女は大きくため息を洩らした。
「まったく……放っておけないねぇ」
そして扉に手をかけたままの王女に向かって言った。
「空き部屋があるからね。あんたがこれから部屋の掃除や店の手伝いをしてくれるなら、しばらく居てもらってかまわないよ。寝床代くらいにはなるだろうさ」
扉にかけた手が、ぴたりと止まった。王女はゆっくりと振り返る。
視界がにじんだが、唇を引き結び、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
女はふっと笑い、手を拭きながら言った。
「そうそう、名乗ってなかったね。あたしはマルタ。この店を一人で切り盛りしている。……よろしく頼むよ」
* * *
マルタに案内され、王女は二階の小さな部屋に通された。
蝋燭の灯がほのかに揺れ、部屋には粉の甘い匂いが染みついていた。窓は小さく、壁は煤で黒ずみ、寝床は藁を詰めただけの粗末なものだった。
王女は外套を脱ぎ、藁の上に身を横たえる。
背にちくりとした痛みが走る。だが、帝城の冷たい寝台に押し伏せられていた夜よりも、はるかに心は安らかだった。
(……生きて、ここにいる)
そう思うだけで、目の奥が熱くなる。
自由とはまだ遠く、行く先も定まらない。
それでも、追われる足を止め、身の危険を案じずに目を閉じられる──
そんな夜に辿り着けたこと自体が、今の王女には、何より尊かった。
だが、その安らぎに身を委ねかけた瞬間、別の感覚が静かに目を覚ます。
──逃げられるものなら、逃げてみろ。
耳に残る低い声。
幾度となく訪れた夜に、重くのしかかった影は、まだ胸の奥に生きている。
見つかれば、捕らえられるだけでは済まないだろう。そう思った瞬間、闇の奥から、あの手が這うように伸びてきた。
王女は藁の感触を指先で確かめ、震える吐息を押し殺した。
それでもいつしか、静かに眠りに落ちていった。
何も起きないと知ったまま、身構えずに眠りにつける──
それは囚われの日々には決して許されなかった、ささやかな自由だった。




