5 和らぐ棘
── 厨房 ──
大鍋がぐつぐつと煮立ち、立ちのぼる湯気が白く視界を覆っていた。
王女は桶を抱え、石床に水を撒いては布で擦る。
今日もまた誰も近寄らず、言葉を投げかける者はいない――そう思っていた、そのとき。
「ちょっと、それ、私の方に回してもらえる?」
振り向くと、煤で汚れた顔の娘がいた。
そばかすの浮いた頬に、赤毛のくせ毛がはねている。
好奇心を隠しきれない瞳は、王女と年もそう違わぬように見える。
「……私に話しかけては、いけないのでは?」
王女が低く問い返すと、娘は肩をすくめてみせた。
「別に命じられちゃいないわ。ただみんな、巻き込まれるのが嫌なだけ」
そう言って、けろりと笑いながら桶を受け取る。
「私は退屈なのが嫌いなの。だから少しくらい話してもいいかなって思ったの」
その無邪気さに、王女は一瞬、言葉を失った。
「私はリシェル。ここに来て一年くらい」
そして、娘は耳打ちするように続ける。
「ねえ、あの皇帝陛下から逃げ出したって本当?」
桶を抱えた王女の腕がぴたりと止まる。
胸の奥に冷たいものが走った。
「……どうして、そんなことを」
「だって、噂になってるもの。みんな怖がって黙ってるけど、私は知りたいの。本当のこと」
敵意も侮蔑もない。ただ真っ直ぐな好奇心だけ。
「……本当よ」
かすかな声で答えると、リシェルの瞳がきらりと光った。
「やっぱり! すごいわね。私なら怖くてそんな真似できない。あの陛下から逃げるなんて」
王女は思わず苦笑した。
「すごい」――そう言われたのは初めてだった。
「どうやって逃げたの? どこに隠れていたの?」
リシェルは身を乗り出すように問いかけた。
王女は少し間を置き、淡々と答えた。
「……森を抜けて、荷車の下に潜ったこともあったわ。蹄の音に震えながら、息を殺して」
「物語みたい! 私なら一晩で泣いちゃう!」
リシェルの大げさな反応に、王女はわずかに肩を揺らした。
「……宿場町では、しばらく人の家に身を置いた。仕事を手伝いながら、隠れていたの」
「へえ! どんな仕事?」
「……台所で。粉にまみれて」
その短い言葉だけで、王女の脳裏にはマルタの笑顔と窯の温もりがよみがえった。
けれど口には出さず、ただ視線を落とす。
「それで、どうなったの?」
「……結局、見つかって捕まった」
リシェルは息を呑み、次の瞬間には笑みを浮かべて言った。
「それでもすごいわ。私なら一日も生き延びられない」
リシェルの大げさな相槌に、王女の口元がかすかに緩んだ、そのとき。
「そこの二人、手を止めるんじゃないよ!」
古参女中の鋭い声が飛んだ。
王女もリシェルも、慌てて桶を抱え直し、作業に戻る。
賑やかな厨房の音に再び包まれながらも、王女の胸にはかすかな余韻が残っていた。
――自分に向けて声をかけてくれた者が、いた。
それだけの事実が、奇妙なほど心を揺らしていた。
* * *
それからの日々、リシェルは懲りずに王女へ声をかけてきた。
故国のことを尋ねたり、逆に自分の家族の話をしたり。
「六人兄弟の真ん中なの。姉二人に兄一人、それに妹と弟。毎日本当にうるさくて。誰かが泣けば誰かが笑ってるの」
そう言って笑うリシェルの顔を、王女はただ見つめていた。
王族として育った彼女には、庶民の家庭というものはよくわからない。
けれどリシェルの言葉の端々に、
――粉にまみれた宿場町の子供たち。笑い声と喧騒に満ちた市場の路地。
同じ温かさの匂いを感じ、なぜか胸の奥がひどく寂しくなった。
やがて王女は少しずつ言葉を返すようになった。
最初は逃亡の出来事だけだったのが、いつしか、その時に抱いた恐怖や安堵までも、断片的に口にしていた。
「……あの時は、本当に心臓が潰れそうで……」
「わあ、想像しただけで怖い! よく無事だったわね!」
「……粉だらけになって笑って……あれが、楽しいと感じた初めてだった」
「粉まみれの王女様!? それ、見てみたかった!」
リシェルは、いちいち大げさな相槌を打ち、子供のように目を輝かせる。
その調子に呆れながらも、王女はいつしか言葉を継ぐのをためらわなくなっていた。
ある日、リシェルは何気なく尋ねた。
「ねえ、あなたの国って、どんなところだったの? 山が多いって聞いたけど」
王女は一瞬ためらい、それから静かに答えた。
「……山は険しいけれど、麦も葡萄もよく育つわ。夏になれば一面の花が咲いて……風は澄んで冷たいけれど、豊かな土地よ」
「わあ……! 本当に綺麗で美味しいものばかりありそう! 一度行ってみたいなあ」
リシェルは目を輝かせ、夢見るように声を弾ませた。
王女の胸に淡い痛みが広がった。
その風景は、今もきっと変わらずそこにある。
民も土地も踏みにじられはしなかった――けれど、王家だけは滅び、帰る場所を自分は失ったのだ。
不思議なことに、リシェルは突っ込んでくるようでいて、決して本当に痛むところには触れてこなかった。
捕らえられて連れ戻されたときのことも――故国を滅ぼされた瞬間のことも――彼女は一度たりとも尋ねなかった。
それが無意識なのか、気遣いなのか、その境目は分からない。
けれど、その優しさを内包した好奇心が、王女の胸をじわりと温めていた。
――この娘と話していると、孤独の棘が少し和らぐ。
王女が、ふとそう気づいた時、
自然と、口元に微かな笑みが浮かんでいた。




