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6 移ろう季節

 ── 帝城・厨房 ──


 床を磨きながら、王女はふと顔を上げた。

 窓の向こう、石畳を灼けつくような日差しが降り注いでいる。


 気づけば、下働きの日々が始まってから、すでに三か月ほどが過ぎていた。


 ──春。


 暖かさを帯び始めた陽気の中に、時折冷たい風が差し込み、身を震わせた季節。

 ただ沈黙の中に閉ざされ、孤独だけを噛みしめる日々だった。

 桶の水音も、布の擦れる音も、すべてが虚ろに響き、自分を影の奥へと沈ませていった。


 ──やがて初夏。


 若葉が陽を透かし、窓から吹き込む風に青い香りが混じり始めた頃、リシェルが声をかけてきた。

 煤に汚れた顔で笑いながら矢継ぎ早に問いを投げ、大げさに相槌を打つ。

 その無邪気さに、季節が盛りゆくのと共に、閉ざされていた心が少しずつほどけていった。


 ──そして今、夏の盛り。


 果実が出回り、城内の厨房にも甘い香りが漂うようになる季節。

 仕事にも慣れ、リシェルとの会話が日々の一部となりつつあった。


 ある日。

 いつものように仕事の合間に、リシェルと言葉を交わしていたときのことだった。


「あ、笑った! やっと!」


 リシェルが果実の皮を剥く手を止め、声を上げた。

 矢継ぎ早な好奇心に答えるうち、王女の口元に微かな笑みが浮かんでいたのだ──。


 王女は慌てて手元の鍋に視線を戻して、磨く手を速めたが、もう遅かった。


「あんたが笑ったの、私初めて見た! ねえ、もっと笑えばいいのに」

「……別に、笑ったつもりは」


 言い訳を口にしかけたが、胸の奥にほんの少し温かな火が灯るのを否定できなかった。





 ── 同刻 回廊 ──


 石造りの回廊を歩いていたダリオスは、開け放たれた厨房の一角にふと目を留めた。


 そこにいたのは王女だった。


 鍋を磨きながら、隣の娘と小声で言葉を交わし──王女の唇にかすかな笑みが咲いた。

 その瞬間を見届け、ダリオスの口角もわずかに弧を描いた。


 だが、その笑みはすぐに冷たい陰へと変わる。


(……いつまでも、のんきな下働きとして笑わせておくわけにはいかんな。

 あれは“亡国の王女”。生きることを望むなら、生きる責任も背負わせねばならない)


 視線を切り、足取りは変わらず穏やかに。

 その背には、何かを秘めた支配者の影だけが落ちていた。





 ── 同夜 王女の居室 ──


 燭台の炎が細く揺れていた。

 寝台の端に取り付けられた鉄環と、銀盆の上に置かれた足枷が、部屋の空気を冷やしている。


 王女は、いつものように寝台の縁に腰を下ろしていた。


「失礼します」


 ミレイユが淡々と鍵と枷を手に取り、王女の足元に跪く──その瞬間。


「今夜は俺がつけてやろう」


 低い声が室内に響いた。


 振り返ると、扉の前にダリオスが立っていた。

 燭火の光が彼の輪郭を縁取り、その影が床を静かに伸ばしていく。


 ミレイユは銀盆を恭しく差し出し、ダリオスの手に渡す。

 それから、わずかに王女へ無表情の視線を投げると、一礼して静かに退出した。


 扉が閉ざされる音が、やけに遠く響く。

 残された空気が、さらに重くなる。


 ダリオスが手元の銀盆に視線を落として、枷の冷たい鉄を指先でゆっくりとなぞる。

 鈍い光沢が燭火を吸い込み、夜気の中で淡く揺らめく。


 王女は思わず身を引こうとする。

 だが、背に感じるのは寝台の支柱──逃げ場はない。

 胸の奥で息が絡み、喉がひきつる。


 男は王女の元まで来ると、静かに身をかがめ、彼女の足首をすくい上げた。

 その姿は一見、姫の前に跪く騎士のように映る。

 けれど触れる掌は誓いではなく、従属を刻むものだった。


 鎖の金具がかすかに鳴る。

 輪が彼女の足首に沿って押し込まれる。

 触れる掌は驚くほどに温かく、そのやさしさめいた温もりが、鉄の冷たさをいっそう鮮烈に引き立てた。


(……怖い……はずなのに)


 足首の奥が熱を帯び、鼓動が甘く跳ねる。

 喉にこわばりが走る一方で、胸の奥には痺れるような震えが広がっていく。

 逃げ場のない恐怖が、いつのまにか別の疼きへと形を変え、彼女の体を内側から溶かしていく。


 まるで時間が引き延ばされたかのように、彼の仕草ひとつひとつが永遠の重みをもって刻まれていく。


 カチリ──乾いた錠の音。

 その響きは不可逆の刻印を打ち込む刃のようで、同時に熱を伴って全身に染み渡った。


 ダリオスが鎖を軽く引く。繋がれた獲物の反応を愉しむように、ゆっくりと。

 黒い瞳には残酷さと甘やかさが入り混じり、捕らえられた者の震えを慈しむように映していた。


「昼は働き、夜は繋がれる。──これがお前の一日の終わりだ」


 その響きに、甘い痺れに沈みかけていた心が、はっと現実に戻される。

 喉までせり上がった動揺を悟られまいと、唇がかすかに震える。


「……まるで、家畜のように扱うのですね」


 押し隠すように吐き出された声は、悔しさと羞恥を押し包んだ、細い囁きだった。


 ダリオスはふっと笑みをこぼす。

「家畜だなんて思っていないさ」


 その愉快げな笑みはすぐに形を変え、獲物をねじ伏せる狩人の顔となり、王女の瞳を深く射抜いた。

「……あれらは笑わぬだろう?」


 王女の胸がひりつく。

 ──見られていた。あの一瞬を。


 羞恥と恐怖が入り混じり、息が詰まる。


「悪くなかったぞ。あの顔は」


 低く落ちる声音は、思いがけずやわらかだった。

 だが次の瞬間、冷酷な光がその瞳に戻る。


「……だが、罰が罰にならぬようでは意味がない」


 鋭い言葉が、王女の胸を射抜く。


「下働きの勤めは今日で終わりだ」

「……!」


 声にならぬ動揺が広がる。


 ダリオスは鎖を最後にもう一度だけ引き、満足げに立ち上がった。


「明日、新たな役目を与える」


 それだけ告げて背を向け、扉を閉ざす。

 残されたのは、鉄の冷たさと重苦しい余韻だけだった。




     * * *




 王女は寝台の上でうずくまった。

 枷に繋がれた足首の重みは、昨夜までと変わらない。だが胸にのしかかるものは、これまで以上に冷たく、鋭かった。


 ──『下働きの勤めは今日で終わりだ』


 ダリオスの言葉が、耳の奥で幾度も反響する。


 ようやく心が少しずつほどけ、人と交わす言葉が孤独の痛みを和らげてくれるのを知り始めていた。

 たとえそれが厨房の片隅で交わすささやかなやり取りであっても──王女にとっては、この城で初めて触れた「救い」に近いものだった。


 だがその救いは、あまりにもあっけなく奪われた。

 まるで彼女が笑みをこぼしたその瞬間を見届け、あえて踏み潰すかのように。


(……なぜ、あの人はいつもこうなの)


 胸の奥に、怒りとも悲しみともつかぬ感情が渦巻く。

 逃げれば捕らえられ、籠に入れられれば孤独に沈められ、ようやく光を感じれば──その光すら手折られる。


 王女は寝台の上で身をかがめ、枷の冷たさを指でなぞる。

 鎖の先に繋がれているのは足首だけではない。

 心までも、あの男の掌に握られている気がした。


(……それでも、折れはしない)


 震えを押し殺して、そう誓う。

 だがその誓いの裏には、取り上げられた温もりへの未練が、痛みのように残り続けていた。


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