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4 孤独に触れる手

 ── 王女の居室 ──


 鎖が鳴った。

 ミレイユの無機質な手により、今夜も足首に枷がはめられる。

 鎖の重みが、床を伝って響いた。


「お休みの支度が整いました」


 事務的な一礼のあと、扉は閉ざされる。

 残されたのは足首を締める冷たさと静寂だけ。


 王女は寝台に身を横たえ、足首の鎖を見つめた。

 昼は人々の前で床を磨かされ、夜はこの鉄に繋がれる。


 その繰り返しの中で、自分はもはや「籠の鳥」ではなく、罪を負わされた囚人なのだと思い知らされる。

 鎖が鳴るたび、誇りを剥がされていく感覚が骨の髄にまで沁みていく。


 けれど、受け入れると決めたのは自分自身だ。

 拒めば、最後の誇りすらも失う──そう分かっているからこそ、逃げ場がなかった。


 その耐え難さに耐えるために、王女は瞼を閉じ、逃亡の日々を呼び起こす。

 粉にまみれた笑い声。窯の火の温かさ。国境の風の冷たさ。

 自分が生きて「選んだ」証。


 囚人の日々を強いられても、心まで縛ることはできない。

 ──そう自分に言い聞かすように。





 ── 厨房 ──


 竈の火が唸り、鍋の湯気が立ち上る。

 下働きたちの声が飛び交う活気の中で、王女の周囲だけは、音が吸い込まれたように静かだった。


 床を磨く手のすぐ横を人が通っても、視線はすべて素通りしていく。

 声も届かない。

 布を擦る音だけが、己の輪郭をかろうじて示していた。


(ここに、私はいない……)


 かつて王宮での孤独は、権威の証しだった。

 籠の鳥であることは、まだ守られている証だった。

 けれど今あるのは、ただの拒絶。

 誰の目にも映らぬ、冷え冷えとした“空白”だった。


 唇を噛み、布を絞る。水滴が床に落ち、輪となって広がる。

 そこに映る影は揺らぎ、やがて消える。


 胸の奥に微かな恐怖が灯った。

 ──いま、自分は“人の傍ら”にすら存在できない。


 竈の唸りも人々のざわめきも遠ざかり、世界が音を失っていく。

 布を擦る手は止まらない。

 止めれば、この世界から自分の痕跡までも消えてしまう気がしたから。





 ── 回廊 ──


 政務の合間、ダリオスは石造りの回廊をゆるやかに歩いていた。

 春の陽光が中庭に差し込み、向かいの棟の穿たれた窓を照らしている。


 湯気と煙の立ちこめる厨房。

 火の赤が竈から漏れ、湯気の向こうに下働きたちの影がうごめいている。


 その中に、見覚えのある姿があった。

 王女だった。


 桶を抱え、袖をまくり、床に身をかがめて床を磨いている。

 周囲では下女たちが冗談を交わし、笑い合いながら手を動かしていたが、彼女だけは、その輪の中に混じっていなかった。


 表情までは分からない。

 それでも、煙と熱気に揺らめくその輪郭は、賑わいのただ中にありながら孤立して見えた。


 ダリオスは足を止めて、その光景をしばし見やった。


 炎と人の声が満ちる場所に、ひとり沈む影。

 その輪郭を、何かを測るように見つめる。


 やがて、わずかに瞳を細めると、何事もなかったかのように再び歩み始めた。





 ── 同夜 王女の居室 ──


 王女は寝台の上に身を横たえていた。

 昼の疲れがまだ体の奥に残っている。けれど、まぶたは一向に重くならなかった。


 瞼を閉じれば浮かぶのは、厨房のざわめきの中で置き去りにされた自分の影。

 あの孤独が骨の髄に沁み込み、眠りを拒んでいた。


 その時、扉が軋む音がした。

 王女は、はっと顔を上げる。

 夜更けに訪れる者などいないはず──胸の奥がざわめく。


 わずかに開いた扉の隙間から、燭の淡い金の光がこぼれ、石壁を撫でて寝台の上に届いた。

 その影の輪郭を見た瞬間、王女の呼吸が止まった。


 ──ダリオスだった。


「……!」


 鎖が小さく鳴る。

 逃げ場のない寝台の上で、王女は身を強張らせるしかなかった。


 ダリオスはゆっくりと寝台に近づき、彼女の足元に繋がる鎖を軽く指で弾いた。

 乾いた金属音が部屋に響く。


「ずいぶん馴染んできたな。……鎖も、労役も」


 王女は唇を噛みしめ、何も返さなかった。

 覗き込む瞳に絡め取られ、息が詰まる。


 その反応を愉しむように、彼はさらに言葉を落とした。


「だが、孤独には馴染まぬらしい」


 王女の胸がひりついた。

 まるで心の奥を的確に抉るような言葉だった。


 ダリオスは低く笑い、囁く。

「籠の中の鳥に触れる者はいない。触れた途端にその者まで罰を受けると怖れるからだ。

 ……だからお前は一人きりだ」


 王女は怒りを押し殺し、皮肉を込めて問い返した。

「……わざわざ、それを告げに来られたのですか」


 ダリオスは答えず、わずかに片眉を上げただけだった。

 そのまま歩み寄ると、ためらいもなく寝台の端に腰を下ろす。


「慰めてやろうか」


 その声音には意地悪さと、奇妙に甘い響きが同居していた。

 まるでそれが誘惑であると同時に、命綱でもあると知っているかのように。


 王女の胸が一瞬、かすかな高鳴りに攫われる。

 しかし、揺らぎかけた自分を悟られまいと、唇を結ぶ。


「……ご厚意には及びません」


 王女は睨み返すように視線を上げ、すぐさまふいっと顔をそらした。


 だが、その拒む姿さえ愉しむかのように、ダリオスは王女に向けてそっと手を伸ばした。

 粗野な強さではなく、驚くほど優しい指先が、王女の頬をかすめる。


「お前に堂々と触れてやれるのは、俺だけだ」


 温かな体温が肌に伝わる。

 ひさかたぶりに感じる人のぬくもりだった。


 王女の胸に、痛みに似た揺らぎが走る。

 孤独の中で乾ききった心が、一瞬だけその温かさを求めそうになる。

 だが──同時に、それが最も許してはならない相手の手であることを、理性は叫んでいた。


 王女はぎゅっと目を閉じ、頬に残るぬくもりを振り払うように首を横に振った。


「……要りません」


 その声はわずかに震えていた。

 だが、震えの奥に潜むのは怯えではなく、誇りを手放すまいとする強さだった。


 ダリオスは笑みを深め、手を引き、寝台から立ち上がった。

 扉に向かいながら、振り返りもせずに言葉を落とす。


「……孤独に耐えきれなくなったら、縋ればいい。そうしたら、いつでも来てやる」


 パタン、と静かに扉の閉まる音がする。


 残された静寂の中で、王女の胸はなお激しく脈打っていた。

 揺さぶられた心を押し殺しながら、王女はただ両手を強く組み合わせ、鎖の冷たさに抗うように震えていた。

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