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3 繋がれた翼

 ── 王女の居室 ──


 その夜、王女は自室へと連れ戻された。


 南向きの格子窓は今は闇を映し、石床の冷気が足元に沁みる。

 賓客用に上質な調度で誂えられたその部屋は、逃亡の前と何も変わっていなかった。

 ただひとつ、寝台の端に取り付けられた鉄環だけが、鈍い光を帯びて新しかった。


 やがて扉が開き、一人の侍女が姿を現した。

 銀盆に小さな枷と鍵を載せ、静かな足取りで近づく。


 侍女の名は、ミレイユ。

 王女がこの城に連れて来られてから、ずっと傍らに仕えている侍女だ。

 光を吸うような黒髪が一本の乱れもなく、後ろでまとめ上げられ、深い黒の瞳には、感情の色がほとんど映らない。

 その無表情で淡々とした物腰は、仕えるというより、むしろ「監視」と呼ぶ方がふさわしかった。その冷ややかな瞳に見据えられるたび、王女は血の気を奪われるような居心地の悪さを覚えていた。


 ミレイユは銀盆を傍らの卓に置くと、寝台のほうへ視線だけで促した。

 王女は一瞬ためらったが、唾をごくりと呑み込むと、寝台の端に腰を下ろした。


 ミレイユは王女の足元に跪き、淡々と告げる。

「失礼します」


 まるで水を汲みに来ただけのような無機質さで、王女の足首を取る。

 鉄の輪がひやりと肌に触れ、血が引くような感覚が走った。


 カチリ、と乾いた音を立てて錠が閉じられる。寝台の鉄環へと繋がれた鎖が、僅かに引かれて鳴った。


 ミレイユは何の感慨も見せず、枷を嵌め終えると静かに立ち上がり一礼した。

「これで本日より、夜は安心してお休みいただけます」


 その「安心」という言葉の響きに、王女は、ぞっとした。抗う術もなく、ただ枷の重みを足首に感じながら視線を逸らすしかなかった。


 部屋を出る際、ミレイユは、ちらりと王女に視線を向けた。感情を欠いたその瞳は、なおさら不気味に映った。


 扉が閉じられ、鎖の金属音だけが静かな部屋に残る。


 王女は寝台に腰を下ろしたまま、己の足首を見つめた。

 鉄の冷たさが肌に食い込み、想像以上の重みが、自分の内側の何かを、静かに押し潰していく。受け入れると自分で言ったはずなのに、胸は軋み、息が詰まる。


 わずかに身じろぐたびに、鎖が床に擦れて小さな金属音を立てる。その音は耳障りなほど鮮明に響いた。


(……まるで、繋がれた鳥)


 その言葉が脳裏に閃いた瞬間、記憶が不意に胸を刺した。

 山風の匂い、子供たちの笑い声、そして窯の前で笑いかけてきた女。

 ほんのひとときの温もりが、今は鋭い刃となってよみがえる。


 王女は唇を噛んだ。寝台に身を横たえ、ぎゅっと瞼を閉じる。

 ──閉じた瞼の裏に、あの笑顔が追いかけてくる。


 息をするだけで、胸の内側がかきむしられるような夜。けれど涙だけはこぼすまいと、必死に耐える。


 鉄の鎖に囚われても、あの空気と記憶を抱き続ける限り、私はまだ生きている──

 そう固く誓うかのように。





 ── 翌朝 厨房 ──


 まだ朝靄の残る時刻、王女は粗末な麻の衣に着替えさせられ、厨房へと連れて行かれた。


 巨大な竈に火が焚かれ、鍋や壺が並ぶその空間は、宮廷の豪奢な空気とはまるで別世界のように雑然としている。

 油と灰の匂い、慌ただしく動く下働きたちの声。

 活気に満ちた朝の厨房──だが、王女が足を踏み入れた瞬間、その喧騒はすっと消えた。


 鍋をかき回す音も、桶を運ぶ足音も、まるで一拍遅れたように途切れる。

 視線は王女に集まり、そして一様に逸らされた。

 彼女の存在そのものが、空気を凍らせたのだ。


 女中頭が前に出て、冷たく言い放つ。

「お前は水汲みと床磨きだよ。黙って手を動かしな」


 桶と布が押しつけられる。

 王女は無言でそれを受け取り、黙々と床に膝をついた。


 その動きを合図にしたかのように、下働きたちも再び手を動かし始める。

 包丁の音、薪をくべる音、鍋をかき回す音──少しずつ場の活気が戻っていく。

 だが王女の周囲だけは違った。誰も近寄らず、目も合わせない。


 賑わいの只中にありながら、彼女の周りには、ぽっかりと空白が広がっていた。


 布を絞り、石床に膝をつく。

 その動作のひとつひとつに、覚えがあった。


 粉にまみれて笑い合った町の日々。

 煤だらけの手で桶を運び、肩を並べて汗を拭い合った。


 今もまた、同じように床を磨いている。

 だが、布を動かすたび、あちこちから気配が触れ、すぐに離れる。王女がかつて絹の衣で玉座の傍らにいたことを知る者たちが、彼女を見て、そして目を逸らす。

 頬が熱を帯びた。桶の水に映る己の姿を、決して見たくはなかった。


 石床を擦る手に力がこもる。


(……王族ならば、下働きたちとの隔たりなど当然のこと)


 そう自分に言い聞かせ、誇りを奮い立たせようとする。


 けれど、胸に痛みが走る。

 粗末な麻布の衣をまとわされているからでも、膝をついているからでもない。


 同じ動作、同じ水の冷たさ。

 なのに、あの温もりがどこにもない。


 濡れた石床に、揺らぐ影のように王女の顔が滲んで見えた。

 それは誇りを守るためにうつむく自分か──それとも、人の輪の中にいたいと願う自分か。


 答えは見えず、ただ石の冷たさだけが指先に沁みていった。

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