10 水面下に潜むもの
ユキは一人森の中を歩いていた。
濡れた服が、特にべったりと体に張りつく濡れた髪がうっとうしい。そして全身から漂ってくる腐ったような臭いが少女をますます不快にさせていた。
「・・・ばか」
一人そう呟く。堀に落ちたことが仕方のないことだということくらい、ユキにもわかっている。だが自分の体が、それも他人の前で臭うのには耐えられなかったのだ。
音だけを頼りに薄暗い森を進む。月明かりを遮る鬱蒼とした木々。それらがまるでこちらを嘲笑う人間の顔のように見えてきて、すでにユキは一人で来たことを後悔し始めていた。
大丈夫、大丈夫。
そう念じるように自分に言い聞かせ、早足に進んでいく。
次第に大きくなってくる水音。そして突然に視界が開けたかと思うと、目の前に大きな川が現れた。月明かりを映す、とても綺麗な川。
ユキは転ばぬよう気をつけながら水面へと近づいていく。足下にあるのは人の頭ほどの大きさの石。行く手を阻む石たちは非常に邪魔だったが、なんとか転ばずに乗り越えていき、靴を脱ぎ綺麗な水に足をつける。
冷たく、気持ちのいい水。
辺りに人気が無いことを確認するとユキは服を脱ぐ。とにかくこの綺麗な水で全身を洗い流したかったのだ。
浅瀬で軽く服を洗い、じゃぶじゃぶと少し深い所まで入る。透明度の高い川は月明かりのおかげで底が見えるため、溺れるのではないかという恐怖を感じることはなかった。身をかがめ、体を洗い始めるユキ。
静かに流れる川に、その水音は想像以上に大きく響く。
「?」
一応は全身を洗い終え、仕上げに取りかかろうとしていたユキはふと視線のようなものを感じて顔を上げる。先ほど洗ったばかりの服を抱き、岸の方を振り返ってみるが人影はない。
気のせいだろうか、ともう一度体勢を戻したところでようやく視線の主に気づく。
「!?」
湾曲した川の淵、崖のようになった対岸の下に2つの目玉が浮かんでいた。深さがどれくらいなのかわからない、光を吸い込みそうなほど真っ暗な水面からこちらを覗く巨大な目玉。
それは徐々に、そして確実にこちらに近づいてくる。
「っ」
恐怖にすくみそうになる体を必死に動かし、ユキは全力で岸を目指す。
次第に速度を上げ、こちらへと近づいてくる目玉。月明かりが照らす中、凄い速度で近づいてくる目玉の下に、少女など丸飲みにできそうなほど巨大な影が見えてくる。得体の知れない『何か』に追われている恐怖でもつれそうになる足をなんとか動かし、必死に陸地へと上がるユキ。
その瞬間。
バシャーン!と背後から何かが飛び跳ねる音が響き、ユキのすぐ後ろから水しぶきが飛んでくる。浅瀬の砂利が重さに耐えられずに鳴る音が響き、それと同時に不気味な鳴き声が響き渡る。背後から感じるのはなにか大きな生物の気配。
ユキは恐怖にかられるがまま、ゆっくりと振り返る。
「あ、あぁ・・・」
その姿を見ただけで、ユキは思わずへたり込んでしまう。
目の前にいたのは巨大な生物。月明かりに照らされて浮かび上がるその巨体はぬるぬるとしていて、恐ろしいほど巨大な口がこちらに向けられている。突き出した巨大な目玉は金色で、感情の感じられない細い黒目がこちらを見据えていた。
ユキは腰が抜けたかのように動くこともできず、その巨大な生物を見つめる。食べられるんだと、そう本能的に理解できた。
足を器用に使い、水音をたてながらゆっくりと間を詰めてくる巨大な生物。その大きな2つの目玉はユキを捉えて離さない。
あまりにも絶望的な状況。逃げるどころか立ち上がることすらできず、ユキは自分を狙うその生物を見つめていることしかできなかった。心が恐怖に支配され、震えが全身に広がっていく。
恐怖で何も考えられないまま、ただ震える少女。
そんな中、唯一心に浮かんだのは一人の少年の姿だった。今のユキが頼ることのできる、たった一人の人物。その言葉を無視しておいて、こんな状況になった時だけ助けに来て欲しいと願うことがあまりにも身勝手だということくらいわかっている。
それでも、ユキはすがるようにその名を心の中で呼ぶ。
(ーーーしらかみっ)
直後、その生物は少女へと跳びかかった。




