方向音痴
私は、定刻よりも早く、現場に到着した。着古したスーツに先程雑貨屋で購入した少し大きめのメガネを身につけた私は、緊張の面持ちでホテルの自動ドアの前に立つ。
自動ドアはまるで私を異世界へと誘う扉のように、ゆっくりと静かに左右へ移動すると、私はすっかり重くなった両足を奮い立たせて、ホテルの中へと入った。
中に入ってみると、真っ先にホテルならではの甘い香りが嗅覚を刺激して、瞬く間に私の頭をリラックス気分にさせてくれる。
だが私は、その気分を再び緊張感が塗り替えた。
こんな高級ホテルへ入ったのは初めてかもしれない。すれ違うホテルの従業員は、例外なく私に挨拶をする。私はついついそれに丁寧に答えてしまうのだった。だが、それではいけない。心苦しいが、今の私の最良の行動は、そんな温かい挨拶を無視することだった。
私はフロント近くにある宴会場の案内を眺めながら、とある会社の名前を探した。
「株式会社エナジーヘルス様」
私は探していた会社名を見つけると、その横に書かれている会場の名前を確認した。
「すみません」
「はいなんでしょう?」
通りすがりのホテルスタッフに声をかけた。彼はホテルマンにしては珍しく少し急いでいる様子だったが、すぐさま笑顔を取り繕ってこちらに振り向いた。
「この宴会場『雅』は何階の施設なのでしょうか?」
私がそう尋ねると、彼は自分の腕時計を確認した。私は腕時計にはさほど詳しくはないが、高級な腕時計であることは確かだった。
「六階の宴会場ですけど・・・メディアの方でしょうか?」
「え?あ!はい、そうです」
咄嗟に仮の姿にならなければならなくなり、私は変な声を上げてしまった。正直、まだそこまで緊張する必要のある側面ではないはずなのに・・・。
相手の眉間に深いしわが折られている。何かを勘付かれてしまったのか?私は彼の次の言葉を固唾を飲んで待った。
「まだ・・・開場まで二時間以上もありますけど?」
彼は訝しげな表情で私を見ていた。
「私・・・方向音痴なもので、遅れないように行動したら、このようなことに・・・」
実際私は、かなりの方向音痴である。地図を見ずに当てずっぽうでどこかへ行く時は大抵真逆の方向へと向かうだけならまだしも、行き慣れた場所や、ちゃんと道案内アプリを使っていても、気がついたら到着予定時刻が伸びてしまう始末だ。
特に今日は絶対に遅刻してはいけないと思い、かなり早い時間に到着する電車に乗ってきたのだ。だが、そういう時に限って、順調に目的地に着いてしまうのだ。さらに私は歩く速度が速いせいで、今日に関しては一本早い電車に乗れたりと、元の到着時間を大幅に巻いての到着だった。
すると、彼は私の言葉を聞いて気さくに笑い始めた。
「そうでしたか!うちの新人も見習ってほしいものです」
いまの言葉の返しを聞いて、彼はどうやらホテルマンではなさそうだと思った。もし、そうだったとしたら、自分の同僚の悪口まがいのことを客に言わないだろう。それこそ、そんな従業員がいるということで、ホテルの品位を下げかねない。
だとしたら、彼は一体何者なのだろうか?もしかしたら、今回の主催者側の人間なのかもしれない。
「それで・・・どちらの?」
また不意に、すぐに答えられなさそうな質問が投げかけられた。恐らく彼は、私の所属している会社名を尋ねているのだろう事は安易に察することが出来た。
「お恥ずかしながら、フリーで活動しております」
またしても、私は失態を犯したような気がした。なぜ私は「お恥ずかしながら」という枕詞をつけてしまったのだろうか?
別にフリーの人々を見下しているわけではないが、世間的な印象でつい口からこぼれてしまったようだ。
それにフリーの人間ほど、自分のやっていることに高いプライドを持ってやっているはずだ。そんな人間がそんな枕詞を付けるのは違和感でしかない。
「そうですか」
だが、どこか彼からも少し蔑むような目線を感じた気がした。まぁ自意識過剰であろう。まぁ蔑んでくれている方が好都合だが・・・
「失礼!私も準備があるのでこれで・・・。開場までまだ時間があるので、開式の三十分前にお越しください。それまではロビーのラウンジにてくつろいでいてくださいね」
彼はそう言うと、少し慌てたような素振りでその場を去っていった。
私は彼のその背中を眺めながら、自分の今までの行動を振り返っては猛省した。振り返れば振り返るほど、明らかに挙動不審だ。
高級ホテルに見惚れ、よくわからない人に話をかけ、そして不自然な言動のオンパレードときた。幸い、相手も急いでいたせいか、あまり気に留めていなかったようだが、これでは潜入捜査が失敗してしまってもおかしくはない。
だが、やはりどうしても緊張してしまう。何せ初めての現場なのに、私は今頼れる上司も共に力を合わせる同僚もいない。
私は今、一人でこのホテルで開かれるとあるイベントにフリーのジャーナリストとして潜入捜査をしようとしている新米の探偵見習いなのだ。
私はとりあえず、彼の言う通り、ホテルの一階のラウンジへ向かうとアイスウーロン茶を飲みながら、今回の捜査資料を再度確認することにした。
手からはどんだけハンカチで拭いても拭うことができないほど、手汗が吹き出している。
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