第1話 湿った空気
最初に感じたのは、寒さじゃなかった。
湿気だ。
鼻の奥に残る、湿った藁の匂い。乾き切っていない布。煤けた木。それに、少し酸っぱいような嫌な空気。
アルノはゆっくり目を開けた。
低い天井。黒ずんだ梁。窓の隙間から差し込む白い朝の光。外では風が鳴っている。
雪だ。
その音だけで分かる。重い雪。湿った雪。ラーデ村の冬の音だった。
「アルノ兄……?」
小さな声がした。
横を見ると、リナが不安そうに覗き込んでいた。ぼさぼさの髪。煤で少し汚れた頬。何度も繕われた服。まだ幼いのに、家の中の音を聞き分けるみたいな目をしている。
「起きた……?」
「……ああ」
喉が痛い。声を出しただけで、胸の奥が少し引っかかった。
熱を出していた記憶が、ぼんやり残っている。汗。寒気。何度も水を欲しがったこと。リナが小さな手で布を替えてくれたこと。
それと、妙に曖昧な夢。
白い部屋。湯気。眠れない夜。知らないはずなのに、体のどこかが覚えているような匂い。
思い出そうとすると、頭の奥が鈍く痛んだ。
「お水いる?」
リナが木杯を差し出す。手つきは慣れていた。慣れていることが、少しだけ胸に引っかかる。
口を付ける。
ぬるい。少し臭う。
「……昨日の水?」
「うん」
リナは当然みたいに頷いた。
アルノは眉をひそめる。理由は分からない。でも、この水は嫌だった。喉が渇いているのに、体が奥の方で拒んでいる。
部屋を見回す。
窓は閉じたまま。寝具は湿っている。壁際に積まれた薪も、少し湿気ていた。息を吸うたび、肺の奥まで湿る気がする。
「……よくこれで寝てられるな」
「?」
リナは本当に分からないという顔をした。
この家では、これが普通だったのだろう。
母のセラがいた頃は違ったのかもしれない。セラは病で亡くなった。家事も、畑も、灯りも、保存食も、リナが少しずつ引き継いだのだと聞いている。
父のローグも、もういない。冬の森から帰らなかった。
だからこの家は、幼いリナの手で何とか保たれている。
「窓、開ける」
「えっ、寒いよ?」
「今の空気の方が嫌だ」
立ち上がる。足が少しふらついた。
床は冷たい。裸足へじわりと冷えが伝わってくる。それでも、この湿った空気の中に寝ている方が嫌だった。
窓を押し開ける。
冷たい風が一気に流れ込む。
外の匂い。雪。森。湿った土。
部屋の空気が押し出されていく。少しだけ、息がしやすくなった。
「さむ……」
リナが肩をすくめる。
「少しだけ」
「少しだけだよ」
リナは口を尖らせたが、窓を閉めろとは言わなかった。
アルノは外を見る。
ラーデ村。
ベルクレイン北西の小さな辺境村。
二十軒ほどの家が肩を寄せ合い、長い冬を越している。屋根には重い雪。煙突からは細い煙。遠くには黒い森。
静かな村だった。
でも、その静けさの奥に、張り詰めたものがある。
この村では、冬を越せなければ春は来ても意味がない。
そんな空気が、村全体へ染み付いていた。
リナは窓辺へ寄り、外から入る風に目を細めた。
「ほんとに少しだけだよ。火、弱くなっちゃうから」
「分かってる」
そう答えながら、アルノは窓枠へ触れた。木が湿っている。指先に冷たさが残った。
水も、布も、木も、空気も。全部が少しずつ同じ方向へ沈んでいくようだった。
その感覚が、どうしても気持ち悪かった。




