第14話 成人の儀
思っていたより静かなんだな。
シエルレインはそう思っていた。成人の義というものは、盛大にとは言わないが皇族に連なる者たちや貴族が大勢集まり、儀礼に則った祭祀を行うものだと思っていた。それがどうだろう。皇宮内に人の気配をほとんど感じない。まるで見てはいけないものがそこにあるように、全ての窓に帷が下されていた。
上弦と下弦が左右に分かれ、荘厳美麗な扉に手をかける。心なしか二人の視線が鋭い。見えない何かを探るように、暁月の合図を待つように。
「シエル」
傍にいた暁月が耳元に唇を寄せ、呟いた。
「何があっても、私を信じろ」
「え?」
シエルレインは暁月に向き直った。一際大きい満月が、昼間のように明るく照らしている。何者にも染まらぬ漆黒の衣装に月光が落ちる。月の意匠が光を受けて輝き、まるで夜を支配する王のように思えた。
「信じろ。それだけで良い。そしてこの夜を超えたら、共に朝日を見るのだ。あの日のように」
あの日。それが何なのかシエルレインは知らない。暁月の瞳は遥か彼方を見るように哀を宿している。疑問も謎もこの胸に一雫ずつ溜まって今にも盃の縁から溢れてしまいそうだが、その度に暁月が掬っていく。
肯定も否定も要らなかった。シエルレインはただ一つの瞳で暁月を見ていた。
夜の王の両の掌がシエルレインの頬に触れ、漆黒と純白が重なる。それは先ほどの熱情を含んだものではなく、神聖な誓いだった。いつも囃し立てる十三夜も、頬を赤らめながら続きを見たがる十六夜も、少しも瞳を揺らさず見ていた。
「開けよ」
静寂を裂くような凜とした声が響く。上弦と下弦はほんの僅かに視線を合わせ、祭殿の扉を押した。石と石が重く擦り合わさる音を立てながら、白い扉がゆっくりと開かれる。
暗闇。
祭殿の中は一つの燭台にも火が灯されず、闇と静寂に満ちていた。ただ一つ、月神を模した神像がある祭壇の前を除いて。そこだけは満月のような天窓から月光が注ぎ、まるで月が床に一つ落ちているようだった。
シエルレインは暁月に手を取られ、ゆっくりと一歩ずつ祭殿に入っていく。後ろで扉が閉まる音がした。傍にいたはずの十六夜と十三夜はいつの間にか祭殿の闇に溶け込むように姿を消している。
暗闇に目が幾分か慣れ、祭壇の前に人影を認めた。向かって左側に三人。それぞれの雰囲気から、分かる。たとえ三年間会っていなくても、自分の家族ならば。父が些か小さく見えるのは自分の背が伸びたからなのか、この三年、心労をかけてしまったからなのか。母は小さな手巾で目元を押さえているように見える。そして妹のメルウィントは真っ直ぐに姿勢を正し、その瞳をこちらに向けているようだが、月明かりが落とす影でその表情は見えなかった。
「シエルレイン、ここへ」
深く威厳のある父の声が月明かりの元へ招いた。そこはまだ少し欠けていて——おそらくこの満月が天窓とすっかり重なる瞬間に完全な円になるのだろう。暁月の手を離れ、光の中に歩を進める。夜の王は静かにその傍に身を潜めた。
「月神に、祈りを」
シエルレインは膝を折り、胸の前で手を合わせて頭を垂れた。朱金の髪が肩から流れ、まるで流星のようだ。
レグルスはその流星を見つめていた。記憶にあるよりも伸びた背、黒い仮面に半分覆われたその面は以前よりも怪しさを増した美しさに満ちている。自分の子でなかったら、その妖艶な色香に囚われていたかもしれないと思わせるほどの、抗えない何かがシエルレインにはあった。いや、明けの明星に、というべきか。
果たしてシエルレインはこの夜を超えられるのだろうか。千年の呪縛から解放され、月神の片割れとしての生を取り戻せるのだろうか。
月が天の一番高いところに登り、シエルレインに完全な円環の月光が降り注ぐ。
時は、来た。
レグルスは意を決したように、震える唇に力を込めて祝詞を読む。
「天地を統べる月神の御名のもとに。
汝は今宵、星の伴侶としての使命を果たす時を迎えた。
その美しき魂は月に捧げられ、
その尊き命は大地の礎となり、
その輝きは永遠に夜空に刻まれるだろう。
月神よ、この子を受け取りたまえ。
この子の全てを、御身の御許へ」
沈黙がしばし祭殿を支配する。空気が一瞬にして張り詰めたのが肌で感じ取れた。それが一体誰の感情なのかはわからなかったが。
「星の伴侶」——その言葉を聞いた瞬間、鋭い痛みのような懐かしさが胸を刺した。初めて聞いたはずなのに、それはなぜだか自分のことだとわかる。だがしかし、使命とは一体何なのだろう。頭を垂れた祈りの姿勢のまま、シエルレインはそんなことを考えていた。
月が傾き始め、円環が欠ける。
最初にその沈黙を破ったのはレグルスだった。
「暁月様、これは……」
困惑した視線をシエルレインの後ろに控える暁月に投げかける。暁月はシエルレインに駆け寄り顔を上げさせた。満月の瞳が焦りとも動揺ともつかない色をしている。
「シエル、なんともないか?」
「え?なんのこと?」
「身体や精神に何か変化はないか?苦しみや痛み……内側から焼かれるような、激しい衝動のようなものは感じておらぬか」
シエルレインの両肩を掴み、頭からつま先まで隅々を探るように見る。
「特には……何もないけど。星の伴侶って聞いた時に何か……少し切なくなったというか。それ以外は変わらない」
ほんの僅か、満月の瞳が揺れた。だがすぐに神妙な面持ちに戻る。
「おかしい……いつもなら月が一番高く昇るあの瞬間に、目覚める筈なのだ」
「暁月様!」
黒衣の四人が祭壇の上に集まり、暁月と同じような困惑を含む瞳でシエルレインを見ていた。その手にはそれぞれの武具が握られている。まるで何かと戦う準備ができているかのようだ。
「今回は一体どうしちまったんでしょう」
「…………なぜ」
「まさか、魔女の呪いは消えた……のか」
「そんなわけないわ。『明けの明星』は生まれてるし厄災の兆候も出てる。あの憎たらしい魔女が何もしないうちに消えるなんて考えられない」
それぞれが疑問を口にする。その間も四人はシエルレインに目を配り、祭殿内に何かを探すような素振りを見せていた。
「暁月、一体どうしたの?父上、成人の儀はこれで終わったのでしょうか?」
暁月とレグルスを交互に見てシエルレインは問う。
その時だった。
「ふふっ……暁月ったら、一千年経ってもちっとも気が付かないのね」
鈴の音のような笑い声が祭殿に満ちた。それはシエルレインがよく知る者の声。物心つく前から共にあった者の。
影から軽やかな靴音を立てて少女が近づいてくる。栗色の巻毛に薔薇の唇。そしてその瞳は——紫水晶の色をしていた。
「メル……?」
「ご機嫌よう、お兄様。そして、暁月。何年ぶりかしらね」
「まさか……!」
黒衣の四人が瞬時に動く。暁月とシエルレインの前に立ち、それぞれの武器を構えた。
「シエル様、暁月様、下がって!」
双剣を構えた下弦は姿勢を低くし、今にも飛びかかりそうな猛獣然とした気迫を放っている。その隣には無言で大剣を構える上弦。両隣には魔杖を両手で胸の前に抱く十三夜と、細く透き通るような細身の刀身を少女に向ける十六夜。
「メルウィント……?一体どうしたのだ……」
狼狽えるレグルスを横目に、少女は華のように微笑って言葉を紡ぐ。
「お父様、どうもしませんわ。私はあなたの愛する娘メルウィント。そして——あなた達の言うところの魔女リリス」
ドレスの端を摘んで淑女の礼をする。
「暁月、あなた、魔女の力と魂はリリスの器……シエルと共にあると思っていたようだけど、本当は違うの」
シエルレインの肩を掴む暁月の手に力が込められる。
「千年前のあの日、確かに私は力と魂ごと星月に取り込まれ、暁月の手で消滅するはずだった。……でもね、私、見つけてしまったの。星月の中に、あなたの魂のかけらを。私はその力を利用して、自分の力と魂を切り離した。力は星月の魂と融合し、私の魂はそれに付随する『モノ』となったの。力が生まれるところに私の魂も生まれ、それは自由に離れて他の誰かと融合できる。星月の魂にはあなたの——月神の魂の破片が宿っているから、人としての肉体の死を迎えない限り永遠に生きる。たとえ死んでも神の魂のおかげで何度も生まれ変わる。そして、私もね」
月が傾き、月光がメルウィントを照らす。紫の瞳が熱を帯びたように、うっとりと濡れていた。
「私、あの時言ったわね。何度も恋人を殺すことになるって。あれは本当でもあり嘘でもあるの。だって、私の魂と力は別々に宿っているから、月星が生まれた時点でいつでも力を発現できるのよ。だから生まれ変わりの初めの方はこんな儀式じみた日じゃなかったはず。でもね、何度目だったか、気まぐれにこの成人の儀の時に力を発現させて、星月をその手にかける暁月がたまらなく美しかったから……それから何度か同じことを繰り返すうちに、皇帝達が勝手に『明けの明星は成人の儀の日に処刑される』なんて慣習をつけるんだから。おかしいったらなかったわ。私が力を発現させなければ、この国も星月の生まれ変わりたちも生きて行けたのにね」
甘ったるい毒を含んだような声で少女は笑う。この場の誰一人、言葉を口に出せないでいた。
「わざわざ演出してあげてたのよ。月神であるあなたが一番美しく輝く、満月の夜。あなたが星月に魂を分け与えた年齢と同じ時に。ああなんて素敵な歌劇なんでしょう。悲劇の恋人達、永遠に結ばれることなく、神は恋人を殺し続ける。……でもね、もうそろそろ飽きたわ。暁月は全く気づかないのだもの。私の魂がこんなに近くにあることも……そして自分が無意味に恋人を殺し続けていることにも」
シエルレインの肩に暁月の爪が食い込む。ギリギリと何かが音を立てるように軋んでいた。それは暁月の心か魂か。痛みに耐えながらシエルレインは思う。きっとこの何倍もの痛みに、暁月の心は晒されているんだろう。メルウィントの姿をした何者かが一体何を言っているのか。シエルレインには全てを理解することができなかったが、何度も暁月が手にかけてきた恋人というものは自分なのだろう。
「暁月もあなたたちも、私を消すために長い間力を尽くしてきたみたいだけど、いくら神力を取り戻しても無駄なこと。唯一方法があるとすれば……ねぇ、暁月は知っているでしょう?」
薔薇の唇から桃色の舌が艶かしくちらりと覗く。
祭殿に満ちていた空気が、音もなく凍りついた。
暁月は動かない。シエルレインの肩を掴む指だけが、ゆっくりと白くなっていく。
四人も動かない。それぞれの武具を構えたまま、少女の次の言葉を待っていた。この場の誰もが、その答えを知っていた。知っていながら、聞きたくなかった。
少女は笑う。この世界で一番残酷で、一番悲しい笑みで。
「あなたが、私を愛すること」




