第9話 月の回廊の向こう側
彼女は訪れる。毎日欠かすことなく。
三年という月日、同じ時間にそこに現れ、とある部屋を訪ねようとする。
「ご機嫌よう、上弦様、下弦様」
少女はシエルレインの私室の前に立つ二人の青年に声をかけた。
一人は無言で礼をする。名を上弦という。真ん中で分けられた髪は顎の辺りで切り揃えられており、理知的な額と翡翠を秘めたような目の色が印象的だ。
「これはこれはメルウィント様。本日もまたご機嫌麗しゅう」
もう一人——前髪が目元まで隠れる短い髪の奥で紅玉の瞳を光らせた青年が、礼をしながら挨拶をする。彼の名前は下弦。小柄な体から発せられる覇気は熟練の剣士のそれだ。
少女の名前は、メルウィント・アステル・ド・ルナリア。
シエルレインの一つ下の妹であり、この国の皇女だ。ふわふわと波打つ長い栗色の髪と同じ色の大きな瞳。まだ幼さの残る薔薇色の頬に、小さな蕾のような唇。愛らしいという言葉そのままのような可憐な少女。
メルウィントは腰に手を当て、二人の前にまっすぐ立ちはだかっていた。
「さて、今日は何のご用事で?」
「もう、わかっているのでしょう」
頬を膨らませながらメルウィントは言う。
「ええ、それはもうよーくわかってますよ。三年とひとつきほどになりますが、毎日毎日いらっしゃってますから」
「今日こそ、会えるかしら?」
「今日も、会えませんよ」
上弦はまた始まったとばかりに呆れた視線を二人に投げかけ、黙って見ている。
「何度も申し上げていますでしょう?あと一月もすれば、成人の義で会えるって」
「だいたいですね、我々だってシエル様がお目覚めになってから会ってないんですよ?こんなに近くにいるってのに……」
私室の扉に額をこつんと擦り付けて、下弦は嘆く。
「あーあ、十六夜と十三夜が羨ましい、羨ましすぎる。シエル様と暁月様の二人に毎日会えるなんて……なぁ、上弦」
上弦は無言で頷いた。
「だいたい、お父様もお母様も私も、家族さえも会わせてもらえないなんておかしいわ。どうして暁月様とあの二人は許されるの?」
「……暁月様の、ご命令だからだ」
上弦が珍しく言葉を発する。そこには、わずかな重みがあった。
「暁月様のお考えがあるんですよ、メルウィント様。何も一生会えないわけじゃないんですから。あとほんの少しの我慢です」
目線をメルウィントに合わせて、下弦は言った。
今日も会えない。
わかっていた。
三年前の事故の後から、お兄様とはずっと会っていない。あの時の記憶は曖昧で、よく覚えていない。突然目の前の地面がぬかるんだと思ったら、お兄様に手を引かれて、そこにお兄様が倒れた。鼻をつく異臭。銀色の髪をした幼馴染の絶叫。半分人の形をした何か。
あれは何だったのか。何が起きたのか。全てを理解するのに、とても時間がかかった。
私には美しいお兄様の記憶しかない。恐ろしい怪我をしたのはわかっている。それを治療しているのが暁月様だとも。けれど——例えどんな姿になっていようとも、私の大切なお兄様に変わりはない。
優しいお兄様。いつもそばにいてくれた、私のお兄様。
会いたい。会って、抱きしめてもらいたい。
「……もう、そろそろ我慢も限界ですのよ……お兄様」
その時だった。
シエルレインの私室の扉が開いて、十六夜と十三夜が出てきた。十六夜は少し頬を赤らめ、十三夜はニヤリと笑っている。
「あら、メルウィント様」
「メルウィント様……!」
二人が同時に声を上げる。上弦と下弦によって、素早く扉が閉められた。
——見えた。
扉の開いた、ほんのわずかな刹那。
白く美しい手。見間違えることはない、シエルレインの手。それが——暁月の背中に回されていた。ベッドの、上で。
メルウィントは激しく動揺した。
鼓動が早鐘のように鳴り、心臓のあたりがシンと冷たくなる。恐怖とも緊張ともつかない汗が滲む。
どういう、こと。
お兄様と、暁月様が——?
そんなことあり得るはずない。暁月様とお兄様は殿方同士で。お兄様には婚約者がいて。そんなまさか、そんな道ならぬこと——。
メルウィントの心がちくりと痛む。
ありえないなんてことがないことは、自分が一番よくわかっている。
いけない。ここにいてはいけない。胸が、苦しい。
お兄様。お兄様。
私の、愛しい、人。
「メルウィント様、お顔の色が優れませんわよぉ?診て差し上げましょうか?」
十三夜がメルウィントの顔を覗き込む。青い瞳が全てを見透かすように思えた。
「いえ、なんでもありません。今日はこれで失礼します」
サッと踵を返し、自室へ向かおうとしたその時——向かいから銀色の髪をした乙女が歩いてくるのが見えた。
首元から指先まで黒一色のドレスに身を包んでいる。口元で切り揃えられた銀の髪が、よりいっそう美しく映えた。
「……セシリア……」
刃のような視線を向け、メルウィントは低く呟く。
セシリアはその視線を無表情で受け取った。無関心なのではない。自分はそのように蔑まれ、憎まれることを当然としているだけだ。
「メルウィント様、本日もご機嫌麗しゅうございます」
深々とお辞儀をする。メルウィントは応えない。代わりに刺すような視線を送る。
暁月の側近の四人もセシリアに礼をした。
「セシリア様、何のご用でございますか?」
十六夜が礼の姿勢のまま、少し顔を上げて問う。
「暁月様にお話があるのですが、お会いできるでしょうか」
十六夜は十三夜と視線を合わせて、困ったような顔をした。
「暁月は、お部屋にいらっしゃるにはいらっしゃるのですが……」
「たぶんあの様子だと、今日は無理ねぇ」
色香を纏った笑顔で十三夜は言う。
「あの、暁月様はご気分が優れないようでして……」
十六夜があれこれと言葉を選んでいるのがわかる。
「暁月様、体調でも悪いのか?」
下弦は紅玉の瞳を見開いた。
「……治せ、十三夜」
上弦は十三夜の前に立ち、両肩を手で掴む。
「違うわよぉ、そんなんじゃなくて。今日はシエル様との甘ぁいひと時が終わりそうにないから」
「お前はまたそんな物言いを……」
そう言いながら十六夜も何かを思い出したように頬が赤く染まっている。
「なぁんだ、いつものことなんだろ、それ。俺は見たことないけどさ」
下弦は頭の後ろで両手を組み、空を見上げる。
「……暁月様、どんな顔してんのかなぁ。気になる」
「……シエル様も」
上弦と下弦も、心なしか口元が緩んでいた。
「ではまた日を改めて伺います」
そんな四人を横目に、セシリアは一礼をしてその場を去ろうとした。
「……お兄様が心配じゃないの、セシリア」
刃のような視線に、精一杯の棘を乗せた言葉でメルウィントは問う。
セシリアは足を止め、振り返らないまま答えた。
「シエルのことを考えない瞬間は、私が鼓動を止めない限り、永遠にありません」
その言葉の中に、堅固な意志が込められていた。
優美な礼を丁寧にメルウィントに送ると、セシリアは静かに姿を消した。
胸の奥が焼けつくように痛む。
憎悪。嫉妬。思慕。
この感情が誰に対してなのか、時々わからなくなる。
暁月。お兄様。セシリア。
怒りとも苛立ちともつかない、言葉にできない感情が胸の中でぐるぐると渦を巻く。泣き出して、叫び出したくなる。
唇を噛み締め、メルウィントはしばらくの間、黒いドレスの後ろ姿を見つめていた。
月の回廊に、静けさだけが残った。




