後編。合流してからその後(あと)だ。
「あぁぁ、すっずしー!」
声が思わず高くなってしまった。それぐらい気持ちがよかったのだ。
「ほんとだよねー! 風邪ひくぐらい涼しいよー」
全身を刺すように通り抜ける冷風。それだけで、今日ここまで戦い抜いた俺達の、その軌跡が全て報われたように感じる。
天国が、ここにあった。
「楽園は、あったんだ。何度でも蘇る楽園が!」
「バカなこと言ってんな。たしかに会場は人がゴミみたいに大量にいるけどさ。とりあえずスポドリ買うぞスポドリ」
「もち もち!」
ってわけで、俺と神田は急いで500mlのペットボトルスポーツドリンクを棚から手に取った。
「まだあってよかったぜ」
「間に合ったねぇ」
二人とも口元がほころんでいる。
「あぁ、こんだけでも気持ちいい」
ただ冷蔵庫からペットボトルを取っただけ。けど、そのひんやりとした容器が、その冷たさが俺の心にしみわたって来る。
「ほんと、しあわせだー」
言葉の後に、左頬にペットボトルをあてがった神田。
「ひゃっ!」
予想外に冷たかったようで、目をパチクリしてびっくりしている。
「買うの確定してるからって、売り物顔にくっつけんなって」
「えへへ、すいませんでした」
苦笑い、けど楽しそうだ。
「よう、仲良し兄妹。俺の存在、忘れてねえかい?」
後ろから声を賭けられた。
「ああすまん。あまりに暑かったんで、お前のこと忘れてた」
そこにいたのは、冷タオルを首にかけたこの季節には暑苦しいだろう、首まで伸ばした茶髪の友人だ。ちなみに茶髪は地毛だ。
Tシャツが張り付いてるのが見てわかる。そのTシャツはキャラの台詞がプリントされた物で、
俺は
お前の
だんなじゃ
ねえ!!
と四行に渡って書かれていた。
「ん?」
声にワンテンポ遅れて振り返った神田は、
「お、残りの顎」
あたりまえのようにそう言った。
「なんだその呼び方?」
神田の呼び方に、苦い顔をするダブルジョウの片割れこと斉藤丈。
「ちょっとまっててくれ。俺ら飲み物買ってくる」
「了解」
ということで、一先ず俺と神田はスポーツドリンクを購入し、斉藤のところに戻った。
「で? なんでえみリッチといっしょにいるんだ、お前」
ペットボトルのキャップを開ける俺達に、当然の疑問をぶつけて来る斉藤。
「ん? たまたまみつけたから」
そうこともなげに神田は答えると、コクコクと僅かに音を立ててスポーツドリンクを飲んだ。
俺も神田に続いて飲む。体中に染みわたって来る冷たい液体。ともすれば頭にキーンっと来そうなぐらいだけど、それがまた、暑さにやられた体には心地いい。
「ぷはー」
満足げな息を吐いた神田、ちょっとおっさんくさかったけどそこには触れないでおいてやる。
「ふぅ。お前、半分ぐらいいっきに飲んだな、その体躯で」
「案の定君だって同じぐらい飲んでるじゃん」
「だからその音程で呼ぶなって言ってるだろ」
「ほんと仲いいな、お前ら。マジで兄妹みたいだぞ」
ニヤニヤして言う斉藤の言葉は、「そうか?」っと軽く受け流しておく。
「しっかし、お目当て一つ。買いそびれちまったなぁ」
はぁ、と息を吐く斉藤には、「委託待ちしかないんだからあきらめろって」と事実を突きつける。
「だよなぁ。そいや案の定」
「お前までその音程で言うのか」
うんざりしてから、「どうした、改まって」と問いかける。
「お前手ぶらだけどさ。他にほしいもん、なかったのか?」
「あるけど元々委託を予約してあるから、今回は買わなくていいんだ」
「値、張るぞ。千円ぐらい余計に」
「並んで買えなかったら疲れるだけだろ。だから、確実性を取ったんだ」
またペットボトルの中身を飲む。勢いで飲み切ってしまったので、出がけにゴミ箱に捨てて行くことにしよう。
「効率厨め。この空間を味わえよ」
「お前はお目当て手に入ったから機嫌がいいだろうけど、こっちはなにもなかったんだぞ」
「えみリッチついてきたけどなー」
「そりゃ偶然だ」
「このイベントだって同じだろ。たまたま見つけたサークルの本が面白かった、なんて話は珍しくない。だからお目当てサークル意外も回って見る。違うか?」
「たしかによく聞く話だけど、話題がズレてるぞ」
「いやー、二重顎も充分仲良しだねー。兄弟みたいだよ」
「二重顎って言うなよえみリッチ」
疲れた調子で返す斉藤には、
「あきらめろ、こいつは絶対に折れない」
と言い切る。
「マジかよ」
大きく頷く神田。
「ほらな」
やれやれ、とダブルジョウで同時に疲労満載でハモった。
「っ」
突然体が震えた。
「まずい、体冷えすぎたらしい。外出ていいか?」
「うん、オッケー」
「まさに案の定君、だな」
「やかましい」
吐き捨てるように言って、俺は出口に向かう。後ろから二人分の足音がついてくる。
「どっかで着替えたら?」
心配そうに言ってくれた神田だけど、俺は首を横に振って、そしてからペットボトルをゴミ箱へ捨てた。
「どうして?」
「着替え、持ってきてないんだ」
「うわぁ。ほんと、運悪いね、庵野くん」
「ほんとだぜ。って、今 普通に呼んだか?」
「誰んちが一番近いかな? 早くシャワーとか浴びないと。体あっためた方がいいよね?」
テキパキと、神田がいろいろ動こうとしてくれている。
「わりい、神田」
「気にしない気にしない。で、誰んとこが一番早くつく?」
「わかんねえなぁ。自宅まで帰るっきゃねえんじゃねえかな?」
「うぅ、そっかぁ」
斉藤の答えに、沈んだ調子で困ったように言った。
「ありがとな、そんな心配してくれて」
こいつ。ただのオタク女子じゃないんだな。意外な一面見たり、だぜ。
「同志だからね。それに、コンビニ行くまでの借りは返しておかなくちゃ」
フフっと照れたような笑いを浮かべる神田。
ーーこいつ。マスコットみたいなくせして、たまに女子になるんだな。
「借りなんておおげさだなぁ、っ、さむ」
真夏だって言うのに、自分を抱きしめてしまった。うわ、そしたらTシャツから汗がにじみ出た、って言うかちょっとしぼれた。
「庵野くん。風邪、引かないといいね」
心から心配している、って言うのがわかる声色。「ほんとだぜ」って答える裏に感謝を忍ばせておく。
「まったく、お目当ては完売するわ風邪は引きかけるわ。なんて日だ」
涼しい通り越して冷たい自分の体に、また小さく震えながら。俺は今日の厄日っぷりに溜息を吐いた。
「でもお前顔赤くなったろがこんのロリコンめ、いいもん拾ったじゃねえか」
「なんでわたし見たかなぁ?」
「ニヤニヤすんな。つかロリコンじゃねえし」
ちょっと怒鳴るように言ってしまった。その声がちょっと頭に響いた……これ、ヤバそうだな。
「ちっこい奴にオネツじゃ、そりゃロリコンだろ」
「「ニヤニヤすんな」
神田とハモってしまった。
「って、オネツ?」
きょとん、がまた出た。
「わわ、ほんとだっ。庵野くん顔ピンクい! 大丈夫っ?」
熱が出たんだと思って、心配してくれたようだ。
「ん、ああ。とりあえずは、な」
熱が出たんなら、足元がおぼつかなくなると思うんだけど、今んとこ大丈夫だな。けっこうギリギリのラインな気がするけど。
「できるかぎり体を冷やさないようにしながらかえろ」
神田の提案に、
「だな」
俺と
「りょっかーい」
斉藤は快く頷いた。
「戦利品置いたら見に行きたいんだけど、家教えてくれない?」
「いいってそこまでしないで」
「だって、心配なんだもん」
「おうおう、積極的だなぁえみリッチ。惚れたか?」
「単純に心配なだけだよ」
苦笑いしてるんだけど……それはそれで、悲しいもんがあるぞ。男として魅力0ってことだし。
「庵野くん、今ちょっと、目の焦点合ってないし」
「マジか?」
言われた俺がびっくりした。
「流石にそれは気のせいだろうえみリッチ」
「そうかなぁ? そうだといいんだけど」
「まあ神田、あんま心配しすぎないでくれって。ハゲるぞ」
「男子には聞くと思うけど、その忠告。わたしには効果ないよ、少なくとも」
「そっか、面白くないな」
「んもぅ、心配してるのにちゃかさない」
怒られてしまった。
「失礼しました」
「わかればよろしい」
偉そうに頷きながら、ちっこい猫耳装着娘はそう言った。
「やれやれ。まさか家に帰るまでが即売会ですよ、な事態になるとはな。風邪ひくなよ、相棒」
「ひかないように願うことにする」
ってなわけで。俺達は真夏の祭典、夏の大規模同人誌即売会会場を完全に後にするのだった。
おしまい。