九十一、閨の祓い
真耶佳からの言訳を聞いた大王は、何と、と言葉を失っていた。真逆此の宮に飛んで来る黒い針が、皇子に禍つ言霊を注ぎ込んでいたとはと。真耶佳への針、大王への針。全て、嫉み妬みと謗り諍いの声。確かに真尋は然う言った。声の主達は、蔑む事も出来ずに諍いになったのだろう。
大王が休む前にこんな話しをとは真耶佳も思わないでは無かった。しかし、直ぐに時記が閨に也耶を連れて来る。
「也耶、好きなだけ弾いて良いよ」
「やめよ、也耶!」
也耶が祓いの体勢に入ると、すかさず皇子が声を上げる。皇子は直ぐに、大王に抑えられて居た。其れを眦に見て、也耶は黒い針を一気に祓う。ぱしんと音が鳴って、閨には清浄な空気が満ちた。
其れが気に入らないのが、皇子だ。大王と真耶佳は安堵為ていると云うのに、皇子だけが寝座の上で黒い針だった物を探し始める。尤も、也耶が全て祓ったから残っている筈も無いのだが。
「我の言葉…我の…助け」
「そんな物は助けでは無い、朝霞」
大王が、重々しい声で言う。禍つ言霊の意味も分からぬか、牙が必要な程他人を傷付けたいかと。
「違います、ちちうえ。傷付けられて居るのは、我…」
「笑わせるな!」
真耶佳が見た事の無い大王が、皇子を叱責する。被害妄想に囚われた皇子を救うには、其れしか手段が無い事は真耶佳が見ても分かった。
「朝霞、其方どれだけ周囲に気遣われて居るのか見た事は有るか。皆お前の顔色を覗っている…悪い意味で」
「わるいいみ…?」
「然うだ。お前が禍つ言霊を牙に変えて誰をも傷付けるから、皆お前を遠巻きに見ている。傷付ける程近付いて呉れる者など、居無いでは無いか」
「澪…」
「疾うに離れて居る。也耶にあれだけ弾かれても無礼を働けば、其の母として当然」
「うそだ…澪は、我の味方…」
「嘘では無い。澪は澪の子等の味方だ」
大王は其処で、真耶佳と目を合わせた。真耶佳は心得たとばかりに湯の話をする。
「朝霞、今日からは父様と時記兄様と湯殿に行きなさい。女湯殿の時間は、終わりよ」
「なっ…ははうえ、誰が襁褓を結ぶのだ!?」
皇子は亜耶が闇見した通りの駄々を捏ねた。笑い出しそうになり乍ら真耶佳は、時記の名を挙げる。勿論、一緒に行く遊馬が体を洗う事も添えて。
「朝霞、貴男は此の宮の初めての赤子では無いの。いつまでも女湯殿には居られないわ」
「秀真は!」
「生まれたばかりで大湯にも浸かれないわ。貴男とは違うの」
「澪はもう…我などどうでも良いのか…?」
皇子は、此処に居無い澪の名を出して尚も同情を得ようとする。其の様は、黒い針を己の牙と変えていた頃とは別物だ。そして問い掛けには、時記が答える。
「澪に取っても皇子は、自分の乳を半分与えて育てた子です。どうでも良くなる事など無いでしょう」
「時記…」
「只、澪は私の妹で私の子等の母だ。皇子に縋られても、手は伸べられません」
一瞬希望を持った皇子の目が、昏くなった。澪は絶対の味方では無いと、知った瞬間だった。時記は皇子の初恋を千切った。しかし、常ならば厳しくなる筈の皇子の視線も言葉も無い侭。也耶の祓いは効いている。大人達にそう確信させて、大王への言訳と皇子の説得は終わった。
乳母の間では、也耶の耳飾りに霊力を込めた月長石を充てている。昨年の今頃に濁っていたのは片方だったが、今回は両方だ。耳飾りに充てられると白砂になって消えて行く月長石を、真尋が面白そうに追っていた。
「也耶、御翁の閨はそんなに邪気が満ちていたのか?」
「うん。妻籠から沢山来ていたから…」
「義父様、何か方法は無いのか?」
「大鏡の角度を変える事で、当座は大王の賛意を得たよ」
ふうん、と真尋は気のない返事をし、唇に人差し指を当てる。何かを考える時の真尋の癖だと、悟織が云ったのはいつだっただろうか。そうして思案して、真尋は言う。
「妻籠の掃討は、いつ行われるのだ?」
「真尋…」
困った時記が言葉を濁そうとすると、真尋は心配ないと言う。掃討と云う言葉の意味も、知っての事だと。
「早くしないと朝霞が、また元に戻る。御爺にもその危機感は有るぞ」
「………年始のあれ此れが終わったら、直ぐにと大王は仰有ったよ」
すると、真尋は目を閉じた。闇見を為ているのだ。そして直ぐに、にかっと笑う。
「早い方が良い。飛筒の様な破落戸、二度と妻籠に入らぬ様に」
飛筒の話は、時記も澪も聞いている。南出津賀姫の元で三重樫と阿久津、大王の弟皇子と通じた者だと。其の飛筒と、真尋は近く接して居たのだ。破落戸と断じてしまう程、禍つ気を持っていたのか。そんな思いで時記と澪は聞く。
「あ…!時記さま、もう湯殿に行かれないと」
「ああ、然うだね。大王の眠りを短くしてしまう」
時記は急いで出て行き、乳母の間には沈黙が落ちた。すると、真尋が見様見真似だと前置きして指先に異世火を灯した。
「真尋!異世火が呼べるのですか!?」
我ながら素っ頓狂だと思う声で、澪は叫んで仕舞った。すると真尋は、此処に居る者だけの内緒だ、と悪戯っぽく笑った。
湯殿から戻った皇子は、力なく時記に抱かれていた。襁褓にも衣にもまるで乱れは無い。暴れた訳では無さそうだ。上から穿かされた袴が少し大きいくらいで、皇子に相応しい装いだった。
「兄様、有り難う。さ、朝霞、此方にいらっしゃい」
真耶佳が時記の腕から皇子を抱き取ると、皇子は途端に泣き出した。剰りに大声で泣くものだから、宮中の皆が注目する。其れさえも策略に見えて仕舞う皇子は、黒い針の所為で信用を失っている。真耶佳の胸元に顔を擦り付けて泣くのだが、真耶佳までもが疑い半分の視線。
「朝霞、泣いていては分かりません。何があったの」
皇子に向かって言い乍ら、真耶佳は大王、時記、遊馬と視線を移していく。誰もが困り顔で、また皇子の我が侭が出たかと皆が思った其の時。
「湯殿でも同母妹の話ばかり…っ、我は、要らぬのか…っ」
「朝霞…」
「同母妹ならば黒い針など拾わないとちちうえは言った…っ」
しゃくり上げ乍ら皇子が言うので、大王は少し悔いている様であった。しかし、真耶佳は屈しない。皇子に当たり前でしょう、と返したのだ。
「同母妹は杜の子、杜に帰る子。拾ってはいけない言霊の見分けぐらい、付くわ」
「ははうえ…」
母の厳しい言葉に、皇子は涙を忘れて其の顔を見上げる。真耶佳は真っ直ぐに皇子の顔を見詰めて言った。
「皇子たる者、禍事からは距離を取らねば。貴男は巫覡では無いけれど、現人神になる身。其れくらい出来ずと如何するのです」
「今は、拾う針が無い…」
「有っても拾ってはなりません。言葉の刃は貴男を独りにする」
「秀真は付き従って呉れるのだろう?」
「貴男の言霊次第です。いつでも居て呉れる都合の良い存在では無いわ」
秀真が自分に絶対服従だと思っていた皇子は、唇を噛んだ。秀真には秀真の意思がある。其れは当然の事だ。当然の事に気付けない程、皇子は黒い針に毒されていた。
「我は、人の心が分からぬ」
「其れは、誰でも同じよ」
「黒い針は、我に人の心を操る術を呉れたと思った」
「傲慢ね」
皇子の言う一つ一つに、真耶佳が言葉を挟んでいく。当然の事として。
「ははうえ…」
「なあに?」
「我は、愛される事は出来るのだろうか…」
真耶佳は既に、皇子を愛している。大王だって然うだ。愛しいからこそ、心配が先に立つ。其れを言訳するのは、皇子には未だ早い。真耶佳はそっと唇に笑みを乗せて、皇子に応えるのだった。




