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魚の杜の巫女  作者: 楡 依雫
水鏡篇 二の章

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八十九、剣舞

 何もかも、大王(おおきみ)がお戻りになってから。其れは、時記(ときふさ)の剣舞にも言える事だ。真尋(まひろ)は大王が剣舞を見ると闇見したのだから。

「今年は、大王がお戻りになってから舞おうか」

「徹夜でお戻りになるのに、剣舞を見てから元始祭…」

「大王には成る可く眠って頂かねばね」

 (みお)は時々、秀真(ほつま)の様子を見に中座する。真尋と也耶(やや)はもう眠っていたが、秀真が泣く前に起きてどちらかが知らせに来ていた。泣き出してからは澪の仕事。時記は剣舞に向けて出来るだけ休ませたい。

「澪、襁褓(むつ)ならば私にも変えられるよ」

 時記は優しく言うのだが、甘えてばかりでもいけないと澪は思う。

「澪、襁褓だ!」

 元気な声がして、皆乳母(めのと)()から出てきた真尋の方を見た。澪が立ち上がろうとするのだが、時記が手で其れを制した。

「澪だって産女なんだ。私にも少しは動かせて」

 時記の穏やかな声で言われ、澪は未だ腹の子が己に馴染んで居無い事を思い出す。悪阻は無いが、時記にも心配を掛けていたと。

「では…お任せ致しますね」

「うん、任せて」

 乳母の間に消えて行く時記の背を見詰め乍ら、澪は過ぎたる(つま)との認識を新たにする。自分には勿体無い、然う呟いた澪の言葉を聞き咎めたのは、真耶佳(まやか)だった。

「澪、時記兄様は澪に相応しい夫よ。寧ろ、時記兄様に澪が居て呉れたのが私達の幸せだわ」

「そ…其の様な事…」

「然うなの。(あかし)為ても良いわ」

 う、と澪が言葉を詰まらせると、真耶佳は易々と証立てを行う。其れと時を同じくして、一番鶏が鳴いた。

「大王は四方拝に赴かれる頃ね…」

「真耶佳さまは大王の、佳き妻ですね」

 澪は、意趣返しとばかりに真耶佳に言う。真耶佳が頬を染めて嬉しいわ、と笑うので、澪は真耶佳には敵わないと笑み崩れるのだった。




 側女(そばめ)達は新年の四日前に大掃除を終えている。其れは神に対する畏敬の為だ。神を迎える為、其の日迄に終える様皆幼い頃から教わっていると云う。(いお)(もり)では八日前だったので、其処は小さな違い。

「真耶佳さま、生姜湯をお飲みになりますか?」

 各務(かがみ)が訊いてきて、暖まった宮の中でも皆底冷え為ていると伝えて来る。真耶佳は然うね、思い切り甘く為なさいなと言って側女達を喜ばせた。甘い生姜湯は、宮では夜の必須。今は明け方だが、もっと早く出せば良かったと月葉(つくは)が悔やんでいた。

「終わったよ、澪」

「真尋は如何しました?」

「襁褓を変えている最中に寝て仕舞ったよ」

 穏やかな時記は、微笑ましい事を隠しもしない。澪も思わず笑顔になって、乳母の間の寝座(じんざ)に思いを馳せた。

「也耶は今宵、どんな言葉を教わったのでしょうね」

「真尋が教えるならば、大和言葉だね。起きてきてからが楽しみだよ」

 そして、時記は真耶佳を見て言う。皇子(みこ)も一緒に休ませなくて良かったのか、と。真耶佳は頭を振って、禍つ言霊を教えたらいけないと答えた。

「大王がお戻りになったら、禊の為に湯殿を使うよね。其の時から皇子は私が連れて行こうか?」

「ええ、お願い。(あかとき)(きみ)には話して置くから」

 真耶佳は溜息がちに頼む。皇子の増長を留める為ならば大王も時記も労は惜しまないのだが、真耶佳には自分の所為と映って居る様だった。そんな事は無いのだが、他人が言っても今の真耶佳は聞かない。全ては黒い針の所為なのに。

「真耶佳さま、もう直ぐ女御館(おなみたち)に亜耶さま方かお戻りになります。亜耶さま方が湯殿を使いに行く前に、水鏡を繋いだら如何ですか?」

 月葉の提案に、真耶佳は湯殿とはと訊く。月葉が女御館を見た所、宴の最中にも湯殿の女達が日の番を為ていた。宴が終わったら亜耶、大蛇(おろと)八和尊(やかずほ)の三人を迎え入れる為だ。

「まあ、親子水入らず?良いわね」

「大蛇さまはだいぶ渋った様ですけれど…」

 真耶佳はその言葉に、領巾(ひれ)で口許を押さえて笑う。女湯殿に入るのは、確かに大蛇には抵抗が有ろう。けれども亜耶の口添えで、どうにか行く事になったと月葉は結んだ。

 丁度、皆に生姜湯が配られた所。澪も子等と時記と共に湯殿を使ってみたいと零した。




 大王は、急いて戻って来た。夜も明け、日がやっと宮にも入り始めた頃。着いた途端大王は、時記の剣舞には間に合ったかと言った。

「暁の王、息を整えて。時記兄様も待っていて呉れたわ」

「おお、流石は時記。気が利くのう」

「真尋の闇見のお陰なんですよ」

 澪が言訳為て、未だ誰も起きて来ない乳母の間をちらりと見遣る。時記が太刀を取りに行く序でに起こすと言うから、澪は任せる事にした。

 時記は片手に布を巻いた太刀を持ち、もう片手に秀真を抱いて乳母の間から出てきた。澪は慌てて秀真を受け取り、足元に駆け回る也耶と真尋を座らせる事に苦心する。

「真尋、時記さまの剣舞が始まります。母の横に座って」

 悟織(さとり)が少し厳しい声を出し、也耶と真尋の追いかけっこは終わる。澪は也耶と共に真尋の隣に座し、秀真と真尋が近くに居られる様計らった。

 そして、時記の太刀持ちての舞が始まる。年始の(はふ)り舞、時記も低く歌い乍ら舞う。大王は見事、とご満悦だった。丁度舞い終わった其処に、井波(いなみ)遊佐(ゆさ)が紫色の餅を持って現れる。

「何と機の良い事か」

「今年は大王のお帰りになる刻限を、月葉様がお教え下さいましたので」

 井波が笑顔で答えると、大王は月葉にも井波にも礼を言っていた。そして、遊佐に目を留める。

「遊佐、其方真名を名乗って居らぬな?」

「…はい」

「我には魂名は宇土(うと)と見える」

 宇土は天地(あめつち)の意味だ。身に過ぎた名と思っていたところに、果敢無(はかな)くなった母。其の母の潰えた地を、名として名乗る事にしたのだと遊佐は言う。

「宇土、其方ももう人の夫となるのだ。母の(おもかげ)を追うより、其の真名の通り天地の様に生きよ。喬音(たかね)の事も、吾子の事も天地と等しく見守っては呉れぬか」

 遊佐改め宇土ははっとした顔をして、一拍置いた。そして、其の様に務めさせて頂きますと答える。喬音は真名を知らされて居たらしく、驚きの様子は無い。

「慣れるには時間が掛かりそうだけれど…宇土、喬音をお願いね。勿論朝霞(あさか)も」

 真耶佳が言祝(ことほ)いで、宇土は宮内で正式に名を戻した。其の後は、持ってきた井波と宇土を入れて紫の餅に舌鼓。矢張り杜は良い。大王は幾度も然う言った。

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