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魚の杜の巫女  作者: 楡 依雫
水鏡篇 二の章
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二十一、潮水

 男湯殿(おとこゆどの)を出た亜耶は、好奇心で神殿(かむどの)まで行ってみる事にした。綾が川の水を沸かすと言って居たが、どの様に運ぶのか気になっていたのだ。

 神殿に着くと既に大鍋に湯が沸かされていて、綾は根気よく湯加減を見ている。きっと、人の身に落ちた大蛇(おろと)には冷水も熱湯も禁物、と大龍彦(おおつちひこ)に言われたのだろう。

「綾」

「ああ、亜耶。早いね」

「男湯殿に行って来たの。大蛇が来るから、って」

 成る程、と頷く綾に、亜耶は頷き返した。男湯殿は(むら)の共用の湯殿とは違い、王族しか入らない。男衆は常駐しているが、湯が沸いて居無い可能性も有ったのだ。

 ところが今日聞いた話では、巫王(ふおう)小埜瀬(おのせ)が酒を飲んでから早朝に(おと)なう事もあるらしい。綾に其れを報告すると、(あき)れた顔が返って来た。

「今度、大蛇にきつく言って貰った方が良いんじゃ無い?」

「私もそう思ったわ」

 酒を飲んで湯に浸かるなど、適温とは言え心の臓が危うい。巫王は勿論、いつの間にか大蛇を兄貴分と慕い始めた小埜瀬も少しは反省する筈だ。

「処で綾、大蛇は今の潮水の加減でも、凍えない?」

「あ………」

 どうやら綾と大龍彦に取ってはもう温かい潮水も、人の身には未だ冷たい事に考えが及んで居無かった様子。綾は慌てて大鍋の下に薪をくべ始めた。大蛇はきっと、凍えきって帰ってくる、と行動で示された様な物だ。

「大蛇が風邪を引く未来(さき)は見えて居無いから、多分大丈夫よ…」

 慌てる綾に、亜耶は思わずそう言った。綾からはごめん、と返事が来る。けれど、亜耶は寧ろ嬉しかった。綾と大龍彦に取って、大蛇は未だ眷属なのだ。人の身に落ちたからと云って、蔑ろにはしない。そんな絆を、見た気がした。




 さて、大蛇が大龍彦と戻って来た。矢張り、がたがたと震えて居る。

「亜耶、来てたのか」

「少し心配で…(きぬ)は脱いだ方が良いわ。冷えた潮水を吸っているから」

(みお)の子生みの時以来だが…あれよりはましだな」

「あれは年の瀬じゃない」

 肌に張り付いた衣を脱ぐのに梃摺(てこず)る大蛇を、亜耶は手伝う。八和尊(やかずほ)に潮水が付かない様に、気を付け乍ら。衣は冷たく、大蛇の肌も冷えている。もう下帯だけになったら、と云って、亜耶は脚結(あゆい)にも手を掛けた。

「水の中はそんなでも無えけど、上がると寒いんだよな」

 大蛇も袴を寛げて、下帯だけに成る事にした様だ。

「亜耶、退いて」

 綾の声に亜耶が大蛇から離れると、大蛇に思い切り湯が掛けられる。大蛇は温けえ、と言って満更でも無い心地の様だ。次に頭から湯を浴びせられると、大蛇は気持ちよさげに唸った。

「ねえ大蛇、光の差さない洞窟の中では、(りん)海馬(うなま)はどう見えるの?」

 亜耶の素朴な疑問に、大蛇は少し考え込んだ。其の間にも、大龍彦が大蛇の体を拭いている。至れり尽くせりだ。

「亜耶、俺の指先から記憶を拾えるか?」

「多分…」

 大蛇が言って、亜耶の額に指を充てる。其処に見えてきたのは、潮水の揺らめきと少しだけ入る光。きっと、夜明け後の光景だ。凜と海馬は、ゆらゆら揺れる潮水の中で、確かに息をしている。碧と白の鱗はそれぞれ、朝焼けの中で輝いて居た。

「綺麗…」

「俺も見た時は感動した」

「亜耶には水が無い時しか見せられないからね…。僕等みたいに、亜耶も水の中で息が出来れば良いのに」

 もう少し太陽が出ると、もっと輝きがちらちらと散って美しいのだ、と綾は言う。其れも見てみたいが、亜耶は大蛇に見せられた光景に感銘を受けていた。

「充分、美しいわ…」

「良かった、亜耶が僕達の稚魚()を受け容れて呉れて」

 綾が感慨深く言うので、亜耶は少し驚く。綾だって元は下半身が魚だったのだし、亜耶には其れが当然だった。其れを、受け容れて呉れて良かった等と。

 不思議な顔をする亜耶に気付いたのだろう、大龍彦が不意に吹き出した。生まれた時から居た綾が魚だったのに、意外に思うわけが無かろうと。

「よし大蛇、拭き終わった。後は湯殿で温まれ」

「ああ、有り難うな兄者。亜耶、俺は此れから男湯殿に向かうが、お前はどうする?」

「八和尊が冷えては困るから、女御館(おなみたち)に帰るわ」

 朝餉は取って置くから、と亜耶は言って大蛇を送り出した。其の侭綾と大龍彦に別れを告げ、亜耶は女御館への道を行く。途中八和尊が目を覚まし掛けたが、どうか女御館まで保って呉れと願い乍ら。




 朝餉時になると、大蛇よりも先に巫王が女御館に遣って来た。きっと、(うら)で何か出たのだ。

「亜耶、山津見神様(やまつみのかみさま)の処には、未だ行って居無いのだろう?」

 (おもむろ)に、巫王は切り出した。何故か朝餉は巫王の分まで配膳されてきて、亜耶がよそった粥を自然に受け取る。

「行ってないわ。奥の神山(かむやま)には、幼い頃しか入った事は無いし…」

綿津見神様(わたつみのかみさま)が仰有るには、其れを急いで早く綿津見宮(わたつみのみや)まで来いと」

「…大蛇に訊かなければね」

 巫王は大蛇が神山に行っていると思って居たらしく、今日の肉は何か等と言って居る。男湯殿に居る事を伝えれば、綾と大龍彦の子等を見たのか、と興奮気味に話に乗ってきた。

「お父様にも見せてあげましょうか、大蛇が見た潮水の中の子等?」

「いや、其れは吾が目で子等を確かめてからで良い」

 巫王にも、殊勝な処が有った物だ。普段は何でも見たがる癖に、こと自分が決めた事となると頑として譲らない。殊勝と云うより頑固なのか。

「で、お父様。男湯殿の男衆に聞いたのですけれど…深酒をして湯に浸かる事が有るんですって?」

「あ…ああ…」

「記憶はお有りの様で。後で、大蛇に叱って貰います」

「あの…其の…」

「丁度大蛇も帰ってくるわ」

 亜耶の声を受けた様に、舎人(とねり)の挨拶が聞こえる。(きざはし)を上る足音は確かに大蛇の物で、巫王の(くつ)が廊下に在る事にも気付いた様だった。

「おい八津代(やつしろ)!」

 入って来るなり大蛇は巫王を叱り飛ばそうと、声を荒げる。実は男衆に、巫王と小埜瀬が朝方訪なう事を包み隠さず話して貰って居たのだ。亜耶は静かに目を閉じ、大蛇の怒号を聞く準備に入る。

「お前酒なんか飲んで湯に浸かったら、心の臓が危ねえだろ!」

「いや…気分が良くなってつい…」

「つい、で(おびと)果敢無(はかな)く為ったら、この(うから)如何(どう)為るんだ!?次の長が生まれたからって、羽目外すんじゃねえ!!」

「小埜瀬が…」

「今度小埜瀬も連れて来い!二人纏めて仕置きだ!」

 大蛇が一息吐いた所で、亜耶は粥の入った碗を渡す。此方もすんなりと受け取られ、亜耶はやっと自分の分の粥を食べ始めた。

「お…大蛇、今日は卜で綿津見神様がだな…」

「知ってる。早く八和尊を山津見の爺さんとこ連れてって、自分に会わせに来いってんだろ」

「ああ…」

「亜耶、三日後行けるか?」

「行けると思うわ。八和尊の愚図り次第だけれど」

「だ…だったら綿津見宮は十日後辺りに…」

「ああ、其れで良い。ちゃんと小埜瀬連れて来んだったらな」

 終始しどろもどろの巫王は、そうして従弟を連れて来る事を了承した。危なっかしい真似を、と綿津見神も苦々しく思って居たに違い無い。こんな形で巫王を女御館に招くのだから、と亜耶は思った。

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