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魚の杜の巫女  作者: 楡 依雫
水鏡篇 二の章
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十九、冷たい海

 大龍彦(おおつちひこ)が、大蛇(おろと)を迎えに来た。洞窟が海に潜る時間だから、子等を見に行こう。そう誘う大龍彦は、(とて)も嬉しそうだった。

 亜耶は大蛇の着替えを用意し乍ら、すっかり父の顔になった大龍彦に微笑ましさを覚える。綾を棄てると言った時の鋭さは、もう微塵も無い。

「はい大蛇、着替えよ」

「潮が満ちてっから、海人(みなと)は居無え。洞窟は昏いが我慢出来るよな?」

 大蛇は人の身に落ちても夜目が利く。夜の海の昏さの中でも、子等を見られるのだ。大龍彦が我慢出来るかと訊いたのは、夜闇が怖いと泣いた亜耶をあやしていた所為だろう。

「兄者、安心しろ。目は昔の侭だ」

「そうか」

男湯殿(おとこゆどの)には私から言って置くわ。ゆっくり子等を見て来て」

 未だ夜は明けきっていないが、随分日が長くなって少し明るい。昼は日が差し込んでいた妹背岩(いもせいわ)の裏の洞窟が、どう見えるのか。亜耶は少し、気になった。

「じゃあ亜耶、頼んだぜ」

「ええ、大蛇。大龍彦、大蛇を宜しくね」

 しっかりと八和尊(やかずほ)襁褓(むつ)を替えてから出掛けた大蛇に、亜耶は少し笑いたくなる。あんなにも拒否した八和尊を、今一番見て居るのは大蛇だ。亜耶は巫女姫としても忙しいから、と買って出て呉れる。

 今日は、珍しく大蛇が八和尊に翻弄されない日。兄弟の旧交を温めつつ、ゆっくり羽を伸ばして来ると良いと亜耶は願った。

「八和尊、乳にしましょうか。愚図り始めて居るものね」

「や、や、…!」

 喃語(なんご)など発するには未だ早い、八和尊の口から決まった文字が漏れる。どうやら、ただ愚図って居る訳でも無さそうだ。

「――也耶(やや)が来るの?」

 半信半疑で亜耶が問うと、八和尊は満面の笑みを浮かべた。途端に水鏡(みずかがみ)に波紋が広がり、也耶の魂が八和尊に触れる。今日は乳をねだりに来た訳では無い様子の也耶に、亜耶は怖い夢ね、と確認した。

 也耶の魂が輪郭を持ち、五月目(いつつきめ)の赤子になって亜耶に縋り付く。どんな怖い夢を見たのか、と思えば皇子(みこ)との未来を見て仕舞った様なのだ。

 皇子は、也耶に触れない。其れでも妻求(つまま)ぎする…幼い内は。其の時には八和尊も水鏡も皇子に取っては邪魔な存在になり、也耶は苦心するだろう。どうにも粗暴な皇子は、大王(おおきみ)だけで無く真耶佳(まやか)月葉(つくは)にまで怒られる。其れが触れられぬ自分の所為にされるのでは、と也耶は怯えて居るのだ。

「也耶、大丈夫よ。貴女の(つま)は八和尊。(いお)(もり)に居るのだから、皇子に害される事も無いわ」

 安心したのか、也耶は八和尊に手を伸ばし、八和尊も其れを掴む。間違いの無い八和尊の愛情に、也耶は安心した様だ。

 けれどそんなに皇子が粗暴だとしたら、水鏡は危険な物になるかも知れない。水鏡は、異世(ことよ)を通して現世(うつしよ)同士を繋ぐ物だ。今後とも宮に置かれるのは、旅立つ時に約した事。今更、変える事は出来無い。如何(どう)した物か、と亜耶は闇見(くらみ)をしてみる事にした。

 そして見えた皇子の未来の大后(おおきさき)、其れは意外な(うから)の意外な姫。也耶に耳を貸して、と言って亜耶が告げたのは、二度と入内(じゅだい)して来ない筈の族の姫だった。

「な…?」

「そう。妻問(つまど)いする様に、也耶が皇子に進言するの」

 未だ自分の生まれた日を知らない也耶だから、受け容れられる事。十に成る前に言うのよ、と言葉を重ねれば、也耶は水鏡にぱしゃんと返事を寄越す。

「也耶、乳は飲んでいく?」

「うう」

 是と云う意味だろう。也耶の方はもう、喃語を話すと澪も言って居たから。二人同時に抱き上げて、亜耶は八和尊と也耶に同時に乳を遣った。握り合った手を離すのが、どうにも哀れだったのだ。

 二人揃って亜耶に抱かれ、両胸の乳を飲み干した頃。也耶が、八和尊の唇に自分の唇を重ねた。口づけと云うほど綺麗な物では無いが、也耶は満足した様だ。

 そして、先程まで愚図っていた筈の二人共の、嬉しそうな笑顔。亜耶は心が洗われる思いで見守ったが、時記(ときふさ)には内緒にしようと心に決めた。




 也耶が魂離(たまさか)りして居られる時間は、余り長くは無い。夢を浄め、乳を飲むくらいが関の山だ。ちゃぷんと音を立てて水鏡を通って帰って仕舞っては、また八和尊が愚図り出す。

 では、現世の也耶を見せて遣ろう。亜耶はそう思って水鏡を揺らしたのだが、夜明けから未だ間が無い。揺らすには、早過ぎた様だ。

 如何しよう。そう思って居ると、水鏡の向こうに誰かの気配。月葉だ。

「亜耶さま、急ぎのご用事ですか?」

「急ぎと云う訳でも無いけれど…澪と也耶は未だ眠って居る?」

「也耶さまは分かりませんが…澪さまは起きて居られる筈ですよ。見に行きますか?」

「お願い、八和尊が愚図って仕舞って」

 其れだけで何が有ったかを見たらしい月葉が、微笑ましい、と言い残して澪を呼びに行って呉れた。月葉は何故起きて居るのだろうと考えれば、湯殿に行く為だ。足止めして悪かった、と亜耶は詫びる。

「良いのですよ」

「其れと…」

「時記さまには内密に、ですね?」

 物分かりの良い月葉は、人差し指を唇に押し当てて笑った。此の貴重な笑顔を、宮でももっと見せれば良いのに。そんな亜耶の思いもお見通しなのか、月葉は何も言わずに立ち去った。

 代わりに、水鏡の前には澪が也耶を抱いて来る。宮の薄暗がりの中でも、しっかりと起きて居たのが分かった。

「ほら八和尊、也耶よ」

 愚図っていた八和尊に也耶を見せようと水鏡に近付けると、也耶も手を伸べて来た。不思議そうな澪に、先程の事を話さなくては、と。亜耶は声を抑えてあのね…と切り出す。

「まあ、也耶がそんな事を?」

「澪、声を落として…」

「え?」

「時記兄様には、言わない方が良いと思うの」

 ああ、と頷いた澪に、亜耶も安心した。時記は八和尊が生まれた時、少し淋しいと漏らして居た。也耶の夫が決まって仕舞った為だ。其れを二人で思い出し、澪と亜耶はふふ、と笑う。

「今朝は也耶が愚図らないと思ったら、杜に行っていたなんて」

「私も八和尊から、也耶が来るのを聞いたのよ。未だ喃語も離さないのに」

「まあ」

 もうしっかりと玉の緒を結んでいる従姉弟同士に、皇子は嫉妬するだろう。でも未だ、其れも先の話。皇子の自我と自尊心が育つまでは、也耶と八和尊は互いだけを見て居れば良い。

「亜耶さま、そう言えば大蛇さまは?」

「洞窟に、綾と大龍彦の子等を見に行っているわ。厭だ私、男湯殿に知らせに行かなければ…!」

 也耶の(おと)ないで忘れて居たが、亜耶にも遣る事は有る。どの位の時間大蛇が子等を見て居るかは分からないけれど、久し振りの海、人の身に落ちてから初めての冷たい海だ。

「お風邪を引かせてはなりませんね」

 澪も、神妙な顔で言う。(うつつ)の也耶を一目見ただけで満足したらしい八和尊に安堵して、亜耶はまた後で繋ぐ、と言って澪に一旦別れを告げた。

 其の後は、駆け足。八和尊をお包みに抱き、(おすい)を掛けて女御館(おなみたち)の反対側に在る男御館(おのみたち)へと急ぐ。今は誰も住まない男御館だが、手入れは行き届いて居る様だ。

 以前ならば時記が居たから、繋ぎは楽だった。けれど今は、亜耶が男湯殿の脱衣所まで行く。男衆は皆一様に驚いて目を剥いて居たが、大蛇の件を伝えると火は点いているからいつ来ても良いと返事を貰えた。

「驚かせて、御免なさいね」

「いいえ、亜耶さまも八和尊さまもお元気そうで…」

「ええ、元気よ」

 亜耶がふわ、と笑えば、未だに顔を赤らめる男衆も居る。けれども大蛇に懐いて居る男なので、心配は無い。

「其れでは、宜しくね」

 恐らく男御館の手入れをしているのも、彼等だ。感謝の念を込めて、亜耶は有り難うと言った。

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