十七、さあ
魚の杜から纏向に送られた物は、藻塩と魚醤だけでは無い。春になるに連れ洗う事が叶った、跑足の白馬だ。綺麗に毛繕いをされ、目隠しをされた白馬は、足だけ見える四角い箱に入れられて陸への舟に乗せられた。海に怯えぬ為だ。
大蛇が付いて来ると、益々懐くかも知れぬ。そう言って厩の族人が纏向までの道を請け負った。白馬は走らせては為らないので、のんびりとした旅になる。藻塩と魚醤は馬車で行って仕舞うので、族人には護衛も付けた。魚の杜の、刺青を入れた海の男達。顔にまで入った刺青に屈強な体躯は、盗賊除けになると巫王が決めた。
「行って仕舞ったわね、大蛇」
「ああ…でも大王が乗ってくれんだろ?彼奴も喜ぶ」
「淋しい?」
其れには答えず大蛇は、夕餉の粥を掻き込んだ。そしてそう言えば、と思い出した様に口にする。
「先刻水鏡で澪に、婆の許しが出たっつってただろ。あれ、何の事だ?」
「ああ、あれはね、今宵のお楽しみ」
今度は亜耶がはぐらかす番だ。婆は澪が態々自分の意向を訊いて呉れた事に感激していたし、汰木は今宵華やかな衣を着る。万木にも時記が衣を貸すと言って居たから、また宮は賑やかになるのだろう。
汰木には、月葉の茜色の紅が似合う。そう亜耶が助言したらば、月葉は快く紅を差し出した。汰木の紅は本当はもう少し濃い色が良いので、杜で調合して貰わなければ。此れは、化粧場の仕事だ。
澪と真耶佳と月葉には朱と紅を定期的に送っているが、汰木の分も増える。そう告げたら化粧場の女達は喜んで居た。亜耶独りには多い女達の、試行錯誤の楽しみになる筈だ。
真耶佳の側女達にも、望むなら紅を配合する。化粧場の女はそう言っていた。今宵、水鏡で訊いてみなくては、と亜耶は思っている。
「今宵はもう一度、水鏡が揺れんのか」
嬉しそうな様子の亜耶に、何か察したらしい大蛇は言った。女の衣や化粧には疎い大蛇だが、亜耶が女湯殿や化粧場に行った後に喜んでいる。しかも、澪にも知らせる程に。流石に気付かなければ、可笑しいとも言えた。
「ああ、亜耶通草食うか?」
「え、もうそんな季節?」
「氷冴が寄越したんだ。妹が摘んで来たと」
亜耶は其処でふと、氷冴の妹が霊眼を持った織り部だと思い出した。布を染める為の草木を穫りに、山に入ったのだろう。少し未来まで見える類の霊眼だから、山の危険も避けられる。幼い頃は、邑の子供達に理解されない亜耶をよく庇って呉れた。女御館の舎人と婚うと聞いて、懐かしくなったのは三年前の事。不思議に喜ばしい気持ちで通草を受け取った亜耶は、綺麗に皮だけ残して中身を食べた。
「大蛇、皮は食べないでね。織り部が使うから」
「そういや氷冴もそんな事言ってたな」
「其の為に摘んだのよ」
邑の彼れ此れを覚え始めた大蛇も、大人しく中身だけ食べ始める。白い実は仄かに甘く、亜耶と大蛇を笑顔にさせた。
織り部だけで無く、化粧場の女達も山に入る。紅の材料を揃える為だ。此方には遠見が得意な霊眼を持った女が居る。だからこそ真耶佳の側女の紅にまで気を回せる程、宮人の顔を知って居る訳だ。
以前水鏡での遣り取りを覗かれた時には腹の立った族の巫覡達だが、皆人も善く情に厚い。霊眼の無い族人には理解されないからこそ、亜耶にも忠を尽くして呉れる。此方が気を付けさえすれば、利はあっても害は無いのだ。
魚の杜は昔、霊眼を持たない族人は居無かったと綾は言う。けれど今は半々と見るが良い処だ。不便な事も多いが、其の分神人や巫覡は尊ばれる。王族の血も証されると云う物だ。
「亜耶、水鏡揺れてんぞ」
通草一つで物思いに入って仕舞った亜耶に、大蛇が声を掛けた。気付けば水鏡は澪が揺らして居て、亜耶は慌てて正面に座した。
「澪、待たせて御免なさいね」
「ああ良かった、亜耶さま。八和尊さまに何か有ったかと思いました…」
澪は安堵して呉れたが、隣に居る汰木に目を向けた亜耶は少し心配になる。何故ならば、汰木にも亜耶が見えて居るからだ。
「汰木、貴女昔から、幽かな者と勘所が合うのでは無くて?」
「え、あ…はい」
「汰木、見えて居るのですか!?」
気付いて居無かったらしい澪は、驚きを隠さない。亜耶が挨拶も無しに切り出した事で、汰木も怯えて居る。申し訳無い事をした、と思いつつ亜耶は、遅れ馳せの名乗りを上げた。
「真耶佳の妹姫で澪の姉姫の、亜耶と云うの。突然驚かせて、悪かったわ」
白い肌に、桜染めの衣。紅茜の裳が迚も似合って居る汰木には、矢張り月葉の紅が映えて居た。急拵えの祝り事には少々出来過ぎな程、汰木は可愛らしい。年を聞いたらば、亜耶と同じ十六だと言う。少し幼い印象を与えるのは、少し上気した頬だ。
そう言って褒めると、汰木はかぁっと赤くなって目を泳がせた。化粧もした事が無ければ、藜以外の衣を与えられた事も無い。そんな汰木には、どう反応して良いのか分からないのだろう。
「領巾は着けないの?」
「あ…あまりめかし込むのも、落ち着かなくて…」
両手の動きを封じられるのにも、慣れて居無いのです。汰木はそう言訳した。万木もそんな事は気にする性分でも無さそうだし、何より汰木は女医だ。両手は常に空けておきたいのだろう。
「では今宵の言挙げの前に、杜に伝わる呪い歌を教えてあげる。玉の緒を永遠に結ぶ歌よ」
「は…はい!」
亜耶は真耶佳が大王に歌った事も知らず、呪いの言と音を別々に教えて行く。先程の反応を見れば、汰木の万木への恋心は分かろうと云う物。汰木は真面目に、指切りし乍ら歌うのですね、と直ぐに覚えた。
奇しくも其れは乳母の間で着替える万木が遊佐に教わって来たのだけれど、発覚するのは時が来てから。大真面目な顔で澪も聞いて居ると思ったら、後で時記に歌うと云う。
「澪には綿津見神様の糸が有るから、同じ役目を果たしているのよ」
「そうだったのですか…!」
「兄様も言葉足らずね」
うふふ、と亜耶が笑うと、澪は嬉しそうに左手の小指を見た。玉の緒を、永遠に結ぶ。其の意思が時記に最初から有った事が、澪を喜ばせた様だ。
「亜耶さまと大蛇さまは、歌ったのですか?」
「婚ってから綿津見神様に嘉されたから、其れで良いと思って居るわ。同じ日まで生きて果敢無くなって、共に白砂になる。充分よ」
澪にそう答えると、亜耶達妹背は背負う物が違うのだと澪は思い出したらしい。勾玉だけで充分、と以前大蛇に言った時と同じ顔で、亜耶は笑った。
其の後は、化粧場の女達の話になった。汰木の為の紅も定期的に送ると亜耶が言えば、澪が実は…と言い出す。
「側女達も、杜の紅を欲しがっていて…」
「化粧場は大喜びするわね。今は私しか使わないから、時間が余っているの」
「良いのですか!?」
ぱっと表情を明るくした澪に、亜耶は優しく微笑んだ。どの側女が欲しがっているかさえ分かれば、次の機会には届けられる。そう告げると、澪は遠慮がちに全員…と答えた。
「数日落ちないのが、羨ましいと云う話に先日なって…」
「真耶佳も特に反対はして居無いでしょう?」
「ええ、寧ろ是非届けたいと」
亜耶さまにお伺いする機を逃して居ました。澪はそう言って、安堵した顔をする。
「側女達にも伝えてあげて、杜の化粧場で作るからって」
「はい…!」
「貝殻に真名を書くから、其の通りに配ってね。遠見が得意な巫覡が化粧場に居るから、色は任せて」
「汰木、杜の紅は落ちませんから、先ず此方の紅を刷く事を練習しましょう」
「は、はい、澪さま…!」
置いてきぼりだった汰木が、突然話を振られて慌てて居る。紅を刷くのは、意外と難しい。木簡に字を書くのと唇に筆を乗せるのとでは、大きな違いが有るのだ。
汰木は此れから、万木の妹として多くを学んで行く。其れは、医術以外の事柄ばかりだろう。万木に同母妹の様に可愛がられて来たと云う汰木は、妹としてまた別の存在にならねば為らない。
「ああ其れとね、年頃の女子に藜の衣に袴なんて許せない、って婆と義娘が猛然と汰木の衣を縫っているから、覚悟して」
「婆…?覚悟…?」
「王族の衣を一手に引き受けている婆なんです。今着ているのも、婆の縫った衣ですよ」
「汰木も衣装持ちになると云う事よ」
きょとんとした汰木には、近々患者を診る為の白衣の他に、汰木の為に縫われた衣も届く。宮を守って呉れた万木と汰木への、杜からの祝いだ。裳裾を巧く捌ける様にならないとね、と亜耶は汰木に笑い掛けた。
澪には、月葉から万木の用意が出来たと声が掛かった。水鏡での紹介も此処まで。さあ、言挙げの宴の始まりだ。