十二、其の時
或る日の早朝、其れは思ったより早く起きた。朝餉の材料を乗せた荷馬車が大后の宮を訪れる。其れはいつもの事。ただ違ったのは、万木の雇い主が同行している事と万木が呼び出された事。
「済まないな万木、朝早くに」
「いいえ、習慣ですから」
「今日は大王のお薬を持って来た」
「お薬…?」
万木の見立ての中では、大王は健康其の物だ。少し腰に痛みを抱えては居るが、其れは以前落馬した時の物だと聞いて居た。其れに使うのは、大后の宮の薬草だ。
薬など、常用する故が無い。
「まあ、話を聞け。此方は毎日の丸薬だ」
万木の手に、皮の袋が乗せられる。中身を検めて万木は、顔を顰めない様にするのに苦心した。少し黄色がかった丸薬、其れは舐めてみなくても分かる。
「そして此方は、気付けの薬」
今度は木を刳り抜いた上等な薬壺。丸薬の袋を閉めて其方を開けた時、万木は息を飲んだ。見覚えの有る乾燥した紫の花、木屑の様な、粉と言うには大きな薬。
「万木、上手く遣れ」
昏い笑顔を顔に貼り付け、雇い主は言った。詰まりは雄黄の丸薬で大王を衰弱させ、気付けと称して止めを刺せ、と。
雇い主は口許を衣で覆ってくつくつと笑い、万木に背を向ける。其の背に刃を突き立てなかっただけでも、万木は褒められて良いと思った。
食材を乗せた荷台部分を置いて、馬車は出て行く。その際、前に置いて行った荷台部分を繋ぐのが慣例。さっさと宮外に避難した雇い主は、共に荷物を検める遊佐に顔を覚えられぬ様にしたのだろう。
「おい万木、何遣ってる!」
閂が閉められるまで荷馬車を見送った万木に、遊佐が声を荒げる。しかし万木の顔色を見て、ただ事では無いと悟って呉れた。
「遊佐、今日持って来た肉や草片に、何かを塗した跡は有ったか?」
「無い。ただ、此処にも在る塩なんかが態々来てた」
万木はそうか、と答え、念の為草片は念入りに洗おう、と提案した。
「彼奴等が持って来た塩や薬草は、使うな。其れも全部、俺に預けて呉れ」
「万木、其れは―――」
「月葉さまの仰有った時が、来た」
言えば、さっと遊佐の顔色も変わる。先ずは井波に報告しよう。其れで話は纏まって、二人は急いで厨に戻った。
話を聞いた井波は、直ぐに時記に諮ろう、と言った。しかし未だ早朝、時記は宮からは下りて来ない。
「草片は全て、食用だったか?」
万木は、遊佐に再度確認する。すると遊佐は、もう一度万木に検めて欲しい、と言う。自分では、食用に良く似た毒を紛れ込まされても分からないかも知れないと。
其処で今度は三人で、荷馬車に戻った。宮内三十人分の草片は多く、此れだけ有ればほんの一束の毒草を混ぜるのも簡単だろう。
万木は食用と確認出来る物から遊佐に渡し、結果ほんの一片の毒草が有った。此れは、間違いで混ざったと思っても良い量だ。
「肉も遊佐の言った通り、何にも塗して無いな」
井波も息子の頼みで肉を検め直し、其れから塩や薬草を混ざらない様風下に運んだ。万木の見守る中、開けられた塩の容器には明らかな雄黄の混入が見られる。
「この蓋に付いてる薄黄色いのが雄黄、体ん中に溜まり続けて衰弱させる毒だ」
「此れが…!」
「万木、先刻丸薬でも渡されたと言ったよな?」
「ああ。丸薬は大王にしか飲ませるなと言われたが、宮全体に毒を盛る気だったんだな」
今は大后の宮が、万木の居場所。万木自身がそう決めた。だから、こんな真似をするなら雇い主でも売る覚悟だ。
怒りを顕わにする万木に、井波は何故か安心した、と言う。最初の馴染まない万木なら、言われた通りにして居たのではと危惧したのだ。
「俺は此れでも医師の子だ。猥りに人の命は奪いやしねえ。其れに時記さまや大王のお人柄を知った今、こんな事しやがる奴には怒って当然だろ?」
「父上、魚の杜から送って貰った塩は、まだ足りますよね?」
「勿論だ、塩も魚醤も今の所は足りてる。追加を送って貰わねばな」
「なら良いな。何でだろうな、余所者の俺だが魚の杜には愛着が湧くんだよな」
「そりゃあ良いな」
井波が万木に答え、遊佐は何事かを思案して居る。
「万木、以前お前が僕と喬音を見守ると言ったのは、本気か?」
「当たり前だろ。何だ、少しは信用して呉れる気になったか?」
「ああ」
遊佐の惑いの無い回答に、万木は驚きを通り越して拍子抜けした。あんなに万木に怒って居たのに、と。
「時記さまが言ってた。万木には悪気が無いって。其れが、今なら僕にも分かる」
「遊佐…」
悪い事と良い事は紙一重だ。最悪の事態に為りかねない事が起こって、万木は遊佐の信頼を手に入れた。
「力一杯見守ってんだ、思いっきり幸せになれよ!」
「…有り難う」
真逆、遊佐に素直に礼を言われるとは。万木はやっと正式に、厨に居着く権利を得た様な気分だ。だからこそ。
「兎に角井波、朝餉は杜の塩や魚醤で作って、運ぶ時に俺も連れてってくれねえか?此奴等と一緒に」
「ああ、私と遊佐で朝餉は運ぶから、其奴等はお前が持って来て呉れ」
自分の居場所は自分で守る、と。万木の口から発せられた言葉に、井波は何も言わずに頷いた。
そして万木はずっと、厨で朝餉が作られるのを見て居た。雇い主を売るのだから、自分も最後かも知れないと思い乍ら。