十、長い旅
いよいよ大后の宮の桜が、満開だ。其の知らせを聞いて、真耶佳は壁に手を付き乍ら階を下っていた。
「真耶佳、無理はするな。我が居るのだから、背に覆い被されば良い」
大王は一段下で真耶佳を振り返るけれど、いいえ、と真耶佳は首を振る。どうにか、階を下り切れそうなのだ。今日まで半分程で諦めていた真耶佳だったが、亜耶は桜が咲き誇れば歩けると言った。ならば、歩いて見せる。そんな意地で真耶佳は階を下る。
上では澪と時記がはらはらと見守り、少し落ち着かない。けれど階を下り切った先に在った真耶佳の沓は、昨日履いて居たかの様に綺麗だった。
「よう下り切った、真耶佳。足はおかしくはないか?」
沓を履いて居ると、大王が手を差し伸べて来る。其の手を取って、真耶佳は自由に歩き回って居たのが昨日の事の様、と言った。
「朝霞を…」
続いて下りて来た澪のお包みを見て真耶佳は言うが、時記が其れを制した。まだ、一人で歩くだけでも良いと。
「真耶佳さま、坂は上れそうですか?」
「ええ、今までに無く力が湧いてくるのよ」
「ならば、天つ神様の桜を真下で見ましょう」
澪に言われて大王を見ると、其の通りだと頷いて居る。坂と言っても然程急な物で無く、杜の神山に在った筈の桜は小高い丘の上で悠々と枝葉を広げていた。
「其方の子生みの夜には、黄金色の桜が咲いたのだ」
「此の桜が黄金色だったのですか?」
幾度も聞いた話だが、桜の迫力を前にするとまた臨場感が違う。白い花が夜空に、黄金色に輝いていたとしたら。真耶佳は想像して、少し恐ろしくなった。
「恐ろしくて当然ですわ、天つ神様のお霊力は大き過ぎますもの」
月葉が真耶佳の肩に襲を掛け乍ら、噛んで含める様に言う。真耶佳も霊眼を持って居るのだから、片鱗を見たとすれば恐れを為すのが自然だと。
大王は意外そうな顔をするけれど、其れも月葉は織り込み済みだ。天つ神の直系に充る大王には、其の霊力は温かいものだろう。
「見て、真耶佳。あれが万木だ」
時記が、話題を変える様に厨の前を指さした。其処には、年の頃は二十歳を少し過ぎたであろう新顔が居る。
「真耶佳、大王の毒見をして居る者だよ。笑い掛けておあげ」
「そうね…宜しく、万木」
聞こえないだろうが、真耶佳は挨拶をして笑い掛けた。すると万木は首まで赤くなって、真耶佳から目が離せなくなっている。
「万木、後で植える物を言いに行くから!」
時記が大きな声で言うと、万木は真っ赤になった侭こくこくと頷いた。澪も万木を微笑ましげに見詰めるものだから、大王が興味を持って覗きに来る。
「其方が万木か!頼りにして居るぞ!」
「は…はい、はい!!」
急に大王まで出て来たのだから、万木はきっと生きた心地がしなかっただろう。真耶佳に色目を使った訳では無いが、大王が出て来た時の血の気の引きは見事だった。
「あの者、近く大王のお命を守りますわ」
此方も興味を惹かれたのか覗きに来た月葉が、万木を見るなり言う。其れは死の暗示か。時記がそう問えば、そんな愚かな男では無い、と月葉は云う。
「毒を食らって死ぬ様な愚物では御座いません」
「後で、亜耶さまに見て頂きましょうか…」
心配になったらしい澪が、小声で時記に問うた。すると月葉は表情を崩し、澪に笑い掛ける。
「大王のお命、と言うなら亜耶に尋ねよう。良いね、真耶佳」
「ええ。暁の王の事だもの、此の宮で何か有ってはいけないわ」
「澪…我を案じてくれるのは嬉しいが、朝霞が潰され掛けて居ろう」
大后の宮では、総てを決めるのは大后。其れは当然なのだが、輪の外に出された大王が澪に助けを求めている。いつもは先に気付く時記だが、少し過敏になっていた様だ。
「ああ、本当だ。澪、皇子を強く抱き過ぎだよ」
「すっ済みませ…」
「ふふっ」
澪が謝ろうとすると、不意に真耶佳が笑い出す。可笑しくて仕方無いと云った調子で笑う物だから、大王が背を撫でて遣るが中々笑いは治まらない。
「真耶佳さま…?」
月葉が動かないので、何も悪い事は起きないのだと分かって居ても澪は不安になった。時記を見れば、同じ様な表情で真耶佳を見て居る。
「真耶佳さま、落ち着かれませ」
とうとう月葉が真耶佳の笑いを止め、背を撫でていた大王もほっと一息吐いた。
「だって、可笑しくて。私が寝込んでいても、こうして歩ける様になっても、此処は此処だ、皆は皆だって思ったら、嬉しくなったの」
未だ完全には笑い止まず、眦の涙を拭う真耶佳は髪を上げていない所為か少女の様だ。真耶佳の言いたい事をいち早く理解した澪は、其の腕に皇子を抱かせる。
「今は皆、の中にお子が居られますよ」
「ええ、そうね…そうだわ」
真耶佳は愛おしげに目を細め、皇子を見た。途端に母の顔になった真耶佳は、訥々と語り出す。
「魚の杜から出て来て…いつの間にか人妻になって、母の域にまで入って。物凄く長い旅をした様な、気がしていたの…」
真耶佳の独白を、皆黙って聞いて居る。大后ともなれば、其の肩に負うる物も大きかろうと。
「でも違ったわ。お父様がたった十日で旅する程の道を来て、未だ一年も過ごして居無いのね」
真耶佳はふと大王に向き直り、花咲く様に笑い掛けた。
「暁の王、此れからも宜しくお願い致します」
「ああ、我こそ後から入って来た者だが、最後まで共に居よう」
大王は、真耶佳の小指と自分の小指を絡めた。皇子を抱いた侭の真耶佳だから、大王が手を伸ばす形に成る。
「歌ってはくれまいか、杜の誓い歌を」
巫覡でない真耶佳には、余り馴染みの無い歌。一度も歌った事の無い歌を、小指を絡めて真耶佳は歌った。其の声は澄んで、悔いなど無いと申し述べて居る様だった。