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魚の杜の巫女  作者: 楡 依雫
水鏡篇 二の章
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四、千早

 真耶佳(まやか)香古加(かごか)湯殿(ゆどの)に行くのを、(とて)も喜んだ。年の近い喬音(たかね)と香古加は仲が良いし、也耶(やや)が好いているのは真耶佳も知って居る。許しを請いに行った(みお)に直ぐに是と頷き、真耶佳はおっとりと言った。

千早(ちはや)も、香古加に会いたがっていたもの」

 (くだん)端女(はしため)にもう名を与えたのか、と澪が思う内に真耶佳に皇子(みこ)を預けられた。澪は月葉(つくは)に促される侭皇子を香古加に抱かせ、真耶佳は嬉しそうに其れを見ている。澪は時記(ときふさ)にも断りを入れ、喬音と香古加を連れて(きざはし)を下りた。

「あの、真耶佳さまは湯は如何(どう)為れているのですか?」

「朝の内に、月葉と共に済ませて居ます。貴女達に迷惑は掛けられないと仰有って」

「迷惑なんて…ねえ、香古加?」

「ええ、真耶佳さまの身の回りの事ですのに」

 澪は忠誠心旺盛な二人の声を背に、ふふっと笑う。真耶佳さまらしいでは無いですか、と二人に問うと、確かに、と返って来た。

 手水(ちょうず)には香古加が良く気付き世話しているが、以前は夕餉前だった湯殿の事に思い至らなかったのが二人共悔しい様だ。しかし側女(そばめ)達の主は、元々杜で身の回りの事は自分で遣る生活をして居た。遣って貰って居たのは、体を洗う事と髪を結う事くらいか。

「其れにね、階を上り下りするのは時記さまが背負っておられるのです」

「ああ、だから…」

「真耶佳さまは貴女達に、力仕事までとは仰有らないでしょう?」

「はい…」

 少し落ち込んだ様子の香古加の声に、階を下りきった澪が振り返る。其の顔は、笑顔だ。

「ですがこうして信じて、大事な皇子を預けて下さる」

「其れは…澪さまと喬音だからでは」

「いつもは、一人ずつしか連れて来ません。私の腹が大きくなって来たから、と真耶佳さまが心配なさるんです」

 二度も喬音を寒い中に引き摺り出すのは、悪いと思って居た。澪はそう言って、香古加が加わる事への歓迎を伝えた。言われて見れば、澪だけが手ぶらで階を下りて来ている。也耶(やや)は、喬音が抱いて居るから。

「有り難う御座います」

 香古加は少し顔を赤くして、澪に言った。澪の意図が通じたのだ。ならば冷える前に湯殿に入ろう、と澪は二人を急かした。




 澪だけが衣を脱ぎ入った湯殿では、端女達が仲良くお喋りをして居た。新入りの端女も、その中に入っている。

「あの…っ」

 手伝いと分かる様に衣を脱がない香古加が、其の新入りの端女に声を掛けた。しかし二の句が出て来ない。何と呼び掛ければ良いのか分からないのだ。

 香古加は長く揚羽姫(あげはひめ)の元に居て、端女が名を呼ばれたのは見た事が無かった。揚羽姫は、端女を人間として扱わず、其れ、とか其処の、とか呼んでいたから。

 すると端女の方から香古加さま、と呼んで近付いて来た。

「まあまあ顔色も良くなって、真耶佳さまの元であたしも貴女も良くして貰って居るのね」

「え、ええ…あの、櫛を…隠して呉れて有り難う」

 すると端女はふと気付いたのか、胸に片手を充てて千早と申します、と軽く頭を下げた。

「千早、綺麗な名ね…!」

奴婢(ぬひ)ごときが、と思うかも知れないけど」

「此の宮に奴婢は居ませんよ、千早」

 横から、澪が優しく千早の自虐を制する。そして澪は、ゆっくり話して良いとばかりに湯に浸かった。

「本当は父母が呉れた名なのだけど長く呼ばれなかったから、矢っ張り真耶佳さまが呉れた名なのだわ」

 千早が言うには、湯殿に行き先が決まって最初の朝に月葉に名を言い当てられ、真耶佳が其の侭真名(まな)として呼んでいるのだそうだ。

「月葉さまは、魂名を読むから…」

「ああ、神人(かむびと)さまだものね」

 少し他の端女達より口調の崩れが少ない千早は、妻籠(つまごみ)に長く籠もって居たのを感じさせる。揚羽姫の前は誰に付いて居たのか、誰も知らなかった。

「あの妃は端女に興味が無かったから、櫛を隠して置くなんて造作も無い事だったわよ」

「でも…」

 揚羽姫は、支配欲の強い姫だ。不意に人の持ち物をぶちまけ、その中から目に付いた物を奪う。大王から色々と贈られる積もりで来たから、其の腹癒せだと側女達は噂していた。

 もし其れに千早が巻き込まれ、赤い櫛が見付かれば只では済まない。隠して置くのに並々ならぬ勇気が必要だったのは、変わらない事実なのだ。

(さと)にね、残して来た娘を思い出したの」

「娘?千早の?」

「ええ、香古加さまと同じ位の娘。あんな扱いを受けていたらと思ったら、体が勝手に動いて仕舞って」

 気付いた時には棄てろと言われた割れた櫛を、庭に放る振りをして胸元に隠して居たのだと千早は悪戯っ子の様に笑う。

「盗人と呼ばれなくて済んで、良かったわ」

「呼ぶ筈無いじゃない、恩人よ!」

「有り難う御座います」

 何故か千早から香古加に礼を言うので、香古加は一瞬呆気に取られた。端女が側女の物に手を付ければ盗人、其れは妻籠の掟。

「千早、もう妻籠の掟に縛られる必要は無いでしょう、お互い?」

「そうね、真耶佳さまと云う()大后(おおきさき)さまに拾われて、こんな幸運有るとは思わなかったわ」

「私も、真耶佳さまの所に行くって決まった時には馬車の中で泣きじゃくって居たのに」

「来てみればまほろばの様。食事も豪華だし、無理な働きは体を壊すって止められるし…」

 ねえ香古加さま、此の宮皆が同じ食事って本当なの?千早の小声が、湯殿の反響で大きく響く。見れば、他の端女達も耳を澄ませて香古加の答えを待って居る。

「本当よ」

 香古加が驚きつつ答えれば、端女達は皆して、だから今まで見た事も無い様な美味い物が出るんだ、と騒ぎ出す。勿論、二人居る赤子を起こさぬ程度の音量で。小さなお祭り騒ぎの湯殿に、澪は楽しげに混ざっていた。

「さて、澪さまはそろそろ湯から上がられて、あたし達に体を洗われて下さいな」

「お子の音も聞きますよ」

「はい、お願いします」

 沐浴用の桶には丁度良く(ぬる)めた湯が入り、今度は喬音と香古加の出番が来た。香古加は赤子の扱いに慣れて見えたと端女の一人が言うから、先ずは也耶を抱いて実地だ。

「也耶さまは、湯に馴れて居るから大丈夫だと思うわ」

 喬音はそう言って也耶を香古加に任せ、皇子を湯に入れて泣かれている。もう馴れても良い頃なのだが、皇子は沐浴が嫌いだ。端女達が遣っても泣くと云う。

「手強いですね、皇子さま…」

 喬音が零した独り言が面白くて、香古加はつい笑って仕舞った。也耶に湯を掛けてきゃっきゃと笑われ乍ら、喬音が面白くて仕方無い。此の年代の女子は小さな事で笑い暮れる。

 皇子が飛ばした水滴が也耶の顔にぴしゃっと当たっても、也耶は気にしない。何が起きて居るのか、目や耳を塞がれても巫覡(かんなぎ)だから大体見えて聞こえて居る。澪の其の言葉が、香古加の中で現実味を帯びた瞬間だった。

「也耶さま、お可愛い…」

 香古加の言葉に、腹の子の心の拍を取られて居た澪が嬉しげに笑った。香古加は父が至る所で作ってきた赤子を押し付けられて郷での時間を過ごしたと云う。その為か沐浴の手際は、初めて連れて来た時の喬音よりずっと良い。次は皇子を任せて見るか、月葉と相談しよう、と。澪は湯殿で最後の流し湯に身を任せた。




 湯殿を出て宮の階に向かおうとすると、待って居た時記が皆に異世火(ことよび)を呉れた。

「聞いて居たより遅かったから、何か有ったかと思ってね」

 穏やかな声で皆を迎え乍ら、喬音が冷えぬ様に、皇子が冷えぬ様に。香古加が冷えぬ様に、也耶が冷えぬ様に。最後に一番冷やしてはいけない自分の(いも)を、時記は異世火で包んだ。

「そんなに長かったでしょうか?」

「うん、皇子が大暴れでもしてるんじゃ無いかって、宮でも皆言ってた」

「懐かしい出会いが、有ったのですよね」

 澪が香古加に微笑むと、時記も事情を察した様で(なご)やかな面持ちになる。

「腹の子の様子は如何だって?」

「今度は育ち過ぎては居りません、と言われて安心しました」

 也耶が三月(みつき)もの早産だったことを知らぬ香古加には何が何やらだったが、澪の笑顔は相変わらず美しい。此の二人は、喬音と香古加に取って理想の妹背(いもせ)だ。

 真耶佳の一つ下の喬音と、澪と同じ年の香古加。二人共、そろそろ(つま)が居てもいい年ではある。

 ただ二人は互いの思い人を、ひょんな事から打ち明け合って知って居た。こんな妹背になれるかと問われれば、答えは闇の中だ。

「喬音、香古加、戻りましょう」

 声を掛けられるまで二人は、時記と澪に見惚れて仕舞ったらしい。はい、直ぐに、と二人揃って返事をして、顔を見合わせてから憧れの妹背の後を追った。

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