百四十五、生まれた朝
産屋の前に居た側女達が戻って来て暫くすると、水鏡の向こうは少し騒がしさを増した。各務を先頭に、真耶佳達が階を上がって来た為だ。
と云っても真耶佳は自分の足でもは歩けず、大王に抱きかかえられて居る。
「暁の王、水鏡に…」
「ああ、分かって居る」
簡単な遣り取りで、各務を除いた一行は水鏡へと寄って来る。時記が抱いているのが也耶、澪が抱いているのが真耶佳の子だ。
亜耶が大蛇の膝に抱えられているのを見た大王は、同じ様に真耶佳を膝に抱えて座る。水鏡越しに一対になった様な姉妹姫に、巫王は少し苦笑いをした。
「真耶佳、未だ力が入らないのね。霊眼は使える?」
「ええ、見えるわ。亜耶、貴女も動けない様では無いの」
「真耶佳程寝付きはしないわ。八和尊の世話もしなければならないし」
其の八和尊はと云えば、亜耶が戻って直ぐに乳を貰って眠って居る。綾が寝座に下ろし、大切に夜具を掛けて呉れてあった。
「真耶佳、天つ神さまは皇子に名を授けて下さったのだろう?」
巫王は澪の腕に抱かれた皇子から、視線を話さず言う。真耶佳と大王は同時に頷いて、朝霞、と答えた。
「朝霞の皇子、か…」
「ええ、私達が望んでいた名を、天つ神さまが付けて下さったの」
「皇子は此の侭、澪の元に?」
「私が起きられる様になるまでは、頼むしか無いわね…」
未だ、此の腕で抱いて居無いのだけれど、と真耶佳は少し残念そうだ。其れを聞いた澪が、失礼しますと言って真耶佳の前に出だ。皇子を真耶佳の胸元に遣り、動きを取り戻し始めた腕を皇子に添わせている。大王も其の意図に気付き、もう片方の腕を皇子を抱き締める様に添わせた。
「真耶佳、どう?」
「温かい…」
澪が更に真耶佳の手を取り、皇子の掌に重ねる。すると皇子は、真耶佳の人差し指を掴んだ。
「まあ…!」
「赤子は言わずとも、母を見分けて居るそうですよ」
嬉しそうな真耶佳に、澪が微笑み乍ら畳み掛ける。亜耶も、杜の産屋で産婆に同じ事を聞いた、と真耶佳を喜ばせた。
「本当に、私の腹に居たのね…」
「当たり前では無いの」
「ねえ、何で私には逆子だと教えて呉れなかったの?暁の王も知って居たと云うじゃ無い」
「真耶佳は先に聞いて居たら、どうしたの?」
問い掛けを問い掛けで返されて、真耶佳は黙り込む。そして、きっと子生みに怯えたわ、と思慮深く答えた。
「真耶佳の魂離りを成る可く避けたかったの、御免なさいね」
亜耶が謝ると、真耶佳は良いわ、と言う。実際亜耶に呼び戻されなければ戻って来られなかったかも知れないのだし、秘してくれて良かったと。
「ねえ亜耶、朝霞はどんな子になるか見える?」
「そうねえ…先ずは、時記兄様の御館の桃を食べようとするわ」
亜耶としては真面目に答えた積もりだったのだが、真耶佳を抱く大王が思わずと云った具合で吹き出した。
「其れは…向こう見ずな子よの」
「もっと未来の事を聞いているのに…!」
真耶佳が聞きたがっているのは、世継ぎとしての皇子の話だ。其処に、巫王が割って入った。
「真耶佳、亜耶も危なかったんだ。闇見は今度に為て遣っては呉れまいか」
「え…危なかったって…」
「亜耶は、僕の血を飲んでも天つ神さまの手助けが無ければ戻って来られない所だったんだ」
綾が、水鏡に付きっきりだった巫王の代わりに厳しい顔で怒る。綾は中々亜耶には怒らないが、一度怒らせると長い。亜耶は少し首を竦め、神殿で怒られたわ、と白状した。
「所で澪、其の右手の嘉は何なの?」
話を変えようと、亜耶が澪の手に残った天つ神の気配に目を向ける。澪は忘れて居た、と慌て出すが、其処へ各務が香古加を連れて来た。
「香古加、此方へ」
「澪さま…?」
「しゃがんで呉れると嬉しいです」
香古加は澪に言われた通りにしゃがみ込み、澪が其の額に天つ神の神気を宿した指を充てる。
「天つ神さまが、皇子の命を取り留めて呉れた香古加への嘉だと仰有って居ました」
「ああ、喉の痞えを取ったのは香古加だったと、姶良も相良も言って居たわね」
亜耶が納得の声を出すが、当然香古加には聞こえない。澪の言訳でも納得出来ない様子の香古加は、頻りに額を触っている。
「暖かいでしょう?」
真耶佳が問い掛けると、香古加は小さくはい、と答えた。真耶佳は此の時初めて、香古加が皇子の命を救って呉れたのを知った様だった。
「香古加、有り難う」
「我からも礼を申すぞ、香古加」
二人からの感謝に、尚更訳が分からない有様になっている香古加に、澪が優しく言訳を続ける。すると、香古加は赤子の喉が痞えるのは当たり前と思って居た事が分かった。
「香古加、知らずにして呉れた事とは云え私達の感謝は変わらないわ」
真耶佳が言うと、香古加は恐れ多いと畏まった。亜耶はそんな香古加の姿を見て、矢張り可愛いと思う。
「ああ、そうだ、月葉の耳飾り。今丁度綾が居るから、真耶佳が眠ったら水鏡に沈めて」
「ね、言ったでしょ?額飾りじゃ足りないって」
綾と大龍彦は水鏡に映らない場所に居るのだが、声が聞こえた事で大王が少し目を瞠った。
「先程も聞こえたが…亜耶姫の言う綾とは何なのだ?」
「魚の杜の守神の一人です。大蛇の双子の兄と妹背で祀られて居るのですよ」
「大蛇の双子の兄は守神なのか!?」
大王の驚きを余所に、綾と大龍彦は水鏡に映ろうとしない。ただ大王への賜り物は預けてあるから、杜に居を移せば否応なしに関わる事になるだろう。
巫王は杜に来た時を楽しみに、と大王を落ち着かせて居る。大蛇は、少し居心地が悪そうだ。
「如何したの、大蛇」
亜耶が振り返ると、大蛇は目を逸らす。有限の命を後悔して居るのかと思いきや、どうやら理由は違う様だ。
「大王…頼むから俺にまたどの、とかさま、とか付けて呼ぶのは止めてくれよ…」
「あ、ああ、相分かった」
そんな遣り取りが終わった所で、真耶佳が香古加に生姜湯を入れてくれと頼んで居る。お開きにしよう、と云う合図だろう。
「其れでは甘い生姜湯を飲んで、皆で温まってね。其れから真耶佳はよく食べる事」
「ええ、そうね。有り難う、亜耶」
皇子が生まれた朝は其の様に過ぎ、静まった水鏡には月葉の耳飾りが届いた。