百四十二、黄金色の桜
最初に亜耶に気付いたのは、月葉だった。産屋の天井近くから周囲を俯瞰する亜耶を見て、亜耶さま、と思わず声に出して仕舞う。
「え…亜耶…?」
真耶佳も丁度痛みの途切れた間だったのか、自分の後ろに立つ月葉の視線を追い、浮かぶ亜耶の姿を確認する。其の唇が小さく何故、と動くので、亜耶は産屋の藁の上に降り立った。
「亜耶…」
「え、何です真耶佳さま」
亜耶の姿が見えて居無い産婆が、不思議そうに産屋の内を見回す。此の侭では、月葉と真耶佳の立場が危うい。亜耶は産屋全体に霊力を込め、只人にも己の姿が見える様にと佇んだ。
「ひ、い…!?」
「落ち着いて、私は真耶佳の妹姫。杜から魂だけ飛んで来たの。見逃して呉れると助かるわ」
「魚の杜の、霊威…!」
矢張り恐れ戦いて仕舞う産婆に、亜耶は尚も言葉を投げ掛ける。
「逆子、なのでしょう?如何すれば良いの?」
此れには産婆も己の務めを思い出したらしく、真耶佳を真剣に見て言った。
「足が出れば、あたし達でお引きします!其れまでは真耶佳さまに息んで頂ければと…!」
其の遣り取りに、慌てたのは真耶佳だった。逆子だと、知らされて居無かったのだから。
「何処まで、息めば良いの…っ」
また痛みの波が来たのか、真耶佳の言葉は途中で途切れた。必死で天井から降ろされた縄を掴み、自分の腹の内を外に圧し出そうとする。真耶佳は幾度もの痛みの波に耐え、其れを繰り返した。
「あ、爪先が…!」
産婆が気付き、真耶佳の腹を必死で上から下へと力強くなぞる。
「真耶佳さま、もう少しです、もう少しでお引き出来ますから…!」
其処で、月葉が結界を張った。巫王と、亜耶の物に重ねてもう一つ。此れは、黒い針から赤子を守る為の物だ。
途端にふわりと産屋の空気が軽くなる。月葉には、かなりの負担だろうけれど。其れを見て亜耶は、急がなければいけない、と思い直す。幻の縄を出現させ、真耶佳の赤子の足に巻いたのだ。
「此れで引ける!私も手伝うわ」
「あ、有り難う御座います、妹姫さま!」
其処からは、力業。湯を沸かして居た産婆見習いや、亜耶に怯えて離れて居た者達が一心に縄を引く。
「真耶佳、頑張って!」
「う、うう…っ」
苦しみ続ける真耶佳の声、しかし息むのは止めないのは母の性。暫く引くと引っ掛かっていた腕、そしてずる、と一番大きい頭が、真耶佳の女陰から出た。其の拍子に真耶佳の足が外れる音がして、真耶佳は気を失った様だ。月葉も然り。強い霊力を使い過ぎ、産屋の藁に仰向けに倒れた。
「真耶佳さま、月葉さま!」
産婆達が慌てて駆け寄り、産婆見習いは赤子に産湯を使わせる為に足早に出て行った。其の時、産屋の戸を開け放った為、産屋の中に居る皆にも全てが見えた。
小高い丘に植えられた桜の上に、雷と見紛うばかりの光が落ち、黄金色の花を咲かせて産屋へと飛び込んで来る。亜耶には、直ぐに其の正体が分かった。
「な、に…?」
産婆見習いの少女は、立ち尽くして仕舞った。赤子は未だ、泣き声を上げていない。早く暖めなくては。
「あなた!早く皇子を産湯に浸けて!喉の奥の水も、吸い出して!」
慌てて言った亜耶が産屋の戸を閉めると、光は輪郭を作り始めた。顔は見えない、けれど黄金色に輝く女神。
「天つ神さま…」
亜耶は片膝を付き、最大限の敬意を表す。すると、天つ神はよい、と云って亜耶を制した。
「母后が、魂離りして居るぞ。妹姫君、呼び戻してお遣り」
「は、はい…!」
亜耶は慌てて真耶佳に駆け寄り、頬を思い切り叩く。
「皇子に初乳を遣るんでしょ!今戻らなくては駄目よ、真耶佳!!」
「体が壊れて締まっているな、それ、治して遣ろう」
必死の亜耶の訴えの横で、天つ神が指先をちょい、と動かした。すると外れた足も裂けた女陰も、見る見る元に戻って行く。
「魚の杜の清らな血が、暁に吾子を授けて呉れた。母后に、吾が嘉を」
言って、天つ神が真耶佳の額を突付くと、真耶佳の体は黄金の光に包まれた。癒やしの光だ。
「妹姫君、痛みは取ってやる事は出来ぬ。しかし子は産めずとも共寝は楽しめねば、母后も暁も哀れよ」
「はい…」
「其方の見立て通り、母后は暫く寝付くぞ。其処でだ」
天つ神は、一旦其処で言葉を切った。じっと見詰められて居る、顔は見えないが、亜耶の肌を刺す厳しい光で其れは知れた。
「妹姫君、今直ぐ其の腹に女子を宿して遣るのと、暁と母后の長きに渡る幸せな時間、どちらを選ぶ?」
妾の力が足りぬ故に、どちらか選べ。天つ神は、そう言って居る。
亜耶の腹に、女子を宿す。其れは、魚の杜に取っての大願。そして、天つ神が宿して呉れる子ならば闇見した定めに抗えるのでは、と亜耶の心は揺れた。
しかし、亜耶は長くは迷わない。直ぐに、大王と姉姫の幸せを、と答えた。
「善き妹姫君よ…其方も、気に入った。嘉するぞ」
天つ神は、亜耶の額にもとん、と触れた。其の指は温かく、多くの神の母神で在る事を亜耶に痛感させる。
「其方の娘の定めは、変えてやる事は出来ぬ。済まぬな、妹姫君」
「いいえ、必然は、有るのですから」
話して居る間に、外で赤子の泣き声が聞こえた。也耶では無い。と云う事は、皇子の喉の痞えが取れたのだ。
「お待たせを…!」
産婆見習いの少女が、慌てて皇子を連れて産屋に戻る。そして、中の煌めきに言葉を失った。
「取り上げて呉れたのは…其方か」
天つ神が産屋を見回し、亜耶に足を引くと言った産婆を見詰める。産婆は萎縮し、思わず血の海の上に手を付きそうになって居た。
「怯えるでない。其方が母后より、初乳を飲ませるのだ。目は、妹姫君が覚まして呉れたからの」
「は、はい…謹んで」
皇子を受け取った産婆は、真耶佳に声を掛け、皇子の口を胸乳に持って行く。勢いよく吸い付いた皇子は、真耶佳の望み通りに初乳を飲んだ。
「乳母姫は、何処に?」
「産屋の前に、立って居ります」
「そうか、妹姫君はそろそろ戻られよ。子生みから十日もせずに此れだけの霊力を使っては、折角結び治した玉の緒が千切れて仕舞おう」
此れを、と云って天つ神の手元に浮かび上がったのは、黄金色の袋。
「どうか持ち帰って呉れ。暁が、杜の世話になる時に使うからの」
「はい…」
少し、心残り。そんな風情で其れを受け取った亜耶の額に、天つ神は口づけた。魂を体に戻す為だ。すると亜耶の結界だけが残り、亜耶の姿は掻き消えた。
「う、ん…」
月葉が小さく呻いて、亜耶の気配が無くなった産屋で目を覚ます。そして黄金色の天つ神に失礼を、と片膝を付いて礼をした。
「良い、無理はするな。其方の働きも、見事であった」
天つ神は、月葉の額にも触れた。当然嘉する為だ。其れから、乳母姫に会いに行くと云って、産屋を出て行った。
産屋の外では、澪が無事に終わったお産に安堵して泣いていた。其処に、壁を通り抜けて来た天つ神だ。
「其方が乳母姫か」
「は、はい…!」
産婆達と同じに萎縮し掛けた澪に、天つ神は触れる。
「其方の娘の分が無理ならば、杜の姉姫君を頼れ。乳の量には限界が有るからの」
そう言って天つ神は、澪の頭を撫でる。皇子は、巫覡では無い。澪が此れから追う気苦労を、先に労っている様だった。