百三十九、吾が妻子
水鏡が静まった後には、亜耶の間に沈黙が落ちていた。大蛇は先程引き寄せた亜耶の肩を離さない。亜耶も、八和尊に目を遣り乍ら寄り掛かるのを止めない。
「亜耶」
大蛇の呼び掛けに、亜耶は恐る恐る大蛇を見る。すると、大蛇は亜耶にゆっくりと口づけた。
「亜耶、悪かった。頭に血が上って…」
「私が頭に血が上る様な事をしたのよ。謝るなら、私だわ」
御免なさい、と亜耶が小さく言うのを聞いて、大蛇は少し笑う。そうしてもう一度口づけようと互いに目を合わせた時、どたどたと女御館の階を誰かが上ってくる音がした。
「誰だ?」
慌てて亜耶を離した大蛇が、誰何の声を上げる。すると、答えたのは巫王だった。
「こんな時間に済まない。渡す物があってな」
大王からの賜り物だ。そう言って巫王は、無遠慮に亜耶の間の布連を潜って来る。
「お父様、返礼など受けてはいけないと…」
「返礼では無い、お前達妹背への計らいだそうだ」
巫王が持って居たのは随分嵩の有る毛皮の何か。腕に八和尊を抱く亜耶は、勿論受け取れない。大蛇が押し付けられる形で受け取って、何物かと検めて居る。
「――夜具か?其れにしちゃでけえな」
「間に赤子が寝る様になれば大きい夜具が必要だろう、と真耶佳が時記達の為に作らせて、其の序でだそうだ」
「成る程な、有り難い気遣いだ」
明日、水鏡で礼を伝えないとな、と自然に亜耶に言う大蛇に、巫王は目尻を下げる。亜耶は何故か、其の言葉に涙を落とした。
「亜耶…?」
大蛇が不思議そうに声を掛けると、亜耶は自然に明日と云う言葉が出て来たのが嬉しくて、と泣いた。先程こっぴどく大蛇に拒否されたのだから、当然と言えば当然かも知れない。しかし大蛇には予想外の涙だった様で、慌てさせるに充分だった。
「亜耶、少しは大蛇の有り難みが分かったか?」
巫王は父親らしく、亜耶を諭す。亜耶は大きく頷いて、大蛇にもう一度謝った。
「亜耶、もう良い…!」
八和尊ごと亜耶を抱き締める大蛇を見て、巫王は収まる所に収まったな、と言う。其の言葉は二人には聞こえて居無い様で、大蛇は亜耶の涙を止めさせようとして益々泣かせて居た。
「其れでは、私は帰るよ」
「お、おい八津代…!」
大蛇の声を背に受け乍ら、巫王は亜耶の間を出て行った。残されたのは、泣きじゃくる亜耶とつられて泣き出した八和尊と大蛇だけ。助けを求める相手を失った大蛇は、八和尊だけでも泣き止ませようと初めて我が子をあやした。
其れを見て亜耶は安堵した様に、少しずつ涙を治めて行った。
大判の夜具は、温かかった。泣き疲れた亜耶も八和尊も包まれてゆっくりと眠り、今はもう早朝だ。
普段の大蛇なら先に起き出して山に川にと出掛けて仕舞うが、今朝は夜具の中。吾が妻子の朝の様子が気になって、起き出すに起き出せない。
亜耶の頬に落ちた髪をそっと掻き上げて遣るが、一晩中八和尊の世話に奮闘していた所為か、何も反応は無かった。大蛇とて、出来るなら交代で見たい。しかし襁褓を替えるだけなら未だしも、乳を求められては亜耶に頼るしか無いのが現状。
時記は如何して居たのだろう、と大蛇は思う。水鏡を繋ぐ序でに聞いてみようと決めるまでに、時間は掛からなかった。
ああだこうだ考えて居る内にも八和尊は目を覚まし、愚図り出す。様子から行って、襁褓の交換だ。亜耶と何を何処に置くか決めたお陰で、襁褓の替えも直ぐに見付かる。
襁褓を替え、あやしてやれば八和尊はまた夢の中に戻って行った。
「大蛇…?」
寝座に誰も居無い事に気付いたか、遅れ馳せで亜耶が目を覚ました。そして襁褓を替えたての八和尊を渡され、慌てて起き上がろうとする。
「亜耶、何でも自分でしようとしなくて良い」
焦っても体が辛い様子の亜耶に、大蛇が優しく声を掛けた。手水でさっと手を洗い、亜耶の頭を撫でると、亜耶は幼子の様に目を閉じた。
「何か、食いたいもんは有るか?此れから獲りに行く」
「大丈夫、朝餉が来るから。其れよりもっと、此処に居て…」
夢現なのか、今朝の亜耶はやけに素直だ。大蛇は其れに分かった、と答えて、今一度夜具の中に戻った。
「朝餉が終わったら、水鏡ね…」
「そうだな、此の夜具の礼も言わねえと」
時記に聞きてえ事もあるし、と大蛇が言うと、亜耶は薄く目を開いて何、と問うた。
大蛇は亜耶の負担ばかりが大きい事を懸念しているのだが、亜耶は不安でならないらしい。彼奴が澪を如何助けてるのか知りたい、と返せば、亜耶は安堵の溜息と共に少し笑った。