百三十八、八和尊
澪と時記は、大王と真耶佳が閨に入ってから水鏡を繋いでいた。向こう側には、亜耶と大蛇。無事に大蛇を取り戻して来たか、と二人はほっと胸を撫で下ろした。
「大王も、男は尻に敷かれる位が良いとは聞くけど、無視をしては駄目だと仰有って居たよ」
「真耶佳さまのご努力も有りますしね」
微笑ましく釘を刺す時記と澪に、亜耶は少し下を向く。しかし気になったのか、真耶佳の努力とは何か、と澪に問うた。
「亜耶さま、闇見の示す未来に行く為にはただ泰然と待つだけではならないのです」
「真耶佳は寵を約束された后よ?其れを、受け止めてはいけないの…?」
「受け止めるからこそ、大王の寵に見合う様ご努力為さるのです」
内容が聞きたければ、真耶佳に聞け。そう言外に滲ませて、澪は笑う。真耶佳の苦労を口にする権利は、澪には無いのだから。
「亜耶、ただ座っていても闇見通りに事が運ぶ事は無いんだよ」
腑に落ちない表情の亜耶に、時記は穏やかに説いた。大蛇は亜耶の横で、無言で頷いて居る。
「所で此の時刻になったのは、大蛇の酔いが醒めるのを待って居た所為?」
「そうだ。足が縺れて亜耶ごと赤子を落としたら、洒落にもなんねえからな」
「じゃあ、まだ名は決まって居ない?」
「いや、其れは…生まれる前に山津見の爺さんが案を呉れて…」
其れを聞いて、時記が吹き出した。だから、直ぐには塒に帰れなかったんだね、と。
「名まで付けて貰って、夜離れして来たじゃ爺さんに悪いだろ」
「では、名付けの話が無ければ神山の塒に帰る気だったの!?」
亜耶が、焦って声を上げる。未だやり直す余地が有るから、神殿に籠もったのでは無いのか、そう亜耶は慌てて居るのだ。
「何だ、お前俺が待ってると思って来たのか?」
「待って居るとは…思わなかったけれど…」
機会は呉れて居るのだと思っていた。そう亜耶は認めて、今更乍ら意気消沈する。大蛇も見て居て哀れになったのか、目を泳がせて仕舞った。
「亜耶、其れだけ大蛇の怒りが深かったと云う事だよ」
「ええ…そうね、其れだけの事をしたわ」
亜耶が肩を落とすのを、結局大蛇は放って置けない。無言で肩を抱き寄せ、今は此処に居ると示して遣って居る。
時記は、そんな二人が戻って来た事が嬉しくて、姉姫と慕う亜耶に厳しい言葉をぶつけた澪を愛しく見詰めた。そんな時記の思いを汲んだか、澪はふふ、と笑って亜耶に向き直る。
「其れで亜耶さま、赤子の名は?」
「ああ、八和尊と云うのよ」
代々魚の杜の一の王子は、名前の先頭に八の字が付く。其の仕来りをも踏まえた上で、山津見神が考えて呉れた名だ。兄神の付けた名ならば、弟神は何も言わない。そうやって綿津見神にも認められた名だと云う。
「そうなんだ、お目出度う。でも…困ったね、澪」
「そうですね…」
実は、時記と澪は今腹の中に居る子に一秀と云う真名を与えようと思って居た。しかし亜耶と大蛇の子と、名が近い。
「其れならば、秀真などは如何?真秀ろばで生きる子なのだもの」
聞いて居た亜耶が、ぽつりと口に出した。途端に亜耶は大蛇に窘められるが、澪と時記は身を乗り出す。
「秀真、良き名です。此の地で生きる子なのですものね…!」
「真耶佳の子の側近となるなら、従弟として此れ以上相応しい名は無いかも知れないね」
では、此の子の名付け親は亜耶だ。そう言って二人が喜ぶのを、亜耶は水鏡の向こうで不思議な目で見て居る。
「先程は叱責されて、今は喜ばれて…忙しい日だわ」
「ま、良いんじゃねえか。喜んでるみたいだぜ」
小声でして居るのであろう遣り取りも、水鏡はしっかり運んでくる。未だ目立たない腹に手を充てた澪が、貴男の名は秀真よ、と言うのを時記は優しく見た。
「そう云えばね、亜耶。八和尊が生まれた時、此方でも不思議な事が有ったんだ」
時記が言いそびれて居た霊気の手の話を始め、其の夜の水鏡での遣り取りは少し遅くまで続いた。
乳母の間に戻った時記と澪は、也耶の定められた人が八和尊だと亜耶が証した事を喜んで居た。時記に抱かれた也耶も其の話と共に目を覚まして、水鏡の向こうの八和尊に手を伸ばして騒がしかったのだ。
其れは亜耶に取っても嬉しかったらしい。水鏡越しに愛を育むなんて、過ぎし日の澪と時記の様だと言って大蛇の同意を得て居た。
そんな風に、戻って来て未だぎこちない亜耶と大蛇だったが、時記には安堵を与えたらしい。
「澪、今宵良いかな?」
勿論、共寝の誘いだ。亜耶と大蛇を見て居て、時記も何か思う所が有ったのだろう。
「…はい、也耶の乳遣りを終えてからで良ければ」
澪は自分の胎と相談してから、そう返した。こんな会話が自然に出来る様になったのは、ここ最近だ。もうじき訪れる真耶佳の子生みが過ぎれば、こんな穏やかな日は滅多に無いと知って居るから、今は思う存分甘く。
也耶を澪に渡した時記は、乳母の間に異世火を散らした。