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魚の杜の巫女  作者: 楡 依雫
水鏡篇
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百三十七、千と十五年

 亜耶は考えて居た。大蛇(おろと)神殿(かむどの)に居ると言ったけれど、其れならば未だ許して呉れる余地が有るのでは無いかと。神山(かむやま)(ねぐら)に帰らなかったのは、亜耶を待って呉れて居るのでは、と希望を持って神殿に向かっていた。

八津代(やつしろ)…」

 亜耶を抱える綾が、宿り木の前でぽつりと言った。

「え?」

 何故、巫王(ふおう)の名が此処で出て来るのか。亜耶が綾の見詰める先を見れば、確かに巫王と大蛇の姿。共に酒を煽いだのかと、亜耶が暢気にも咎めようとした時。此処からは歩けるか、と綾に聞かれた。

「多分、此の位なら…」

「良かった」

 宿り木の麓に亜耶は降ろされ、半ば寄り掛かる様にして体勢を立て直す。赤子を抱いて宿り木に寄り掛かるのは、加減が分からず少し怖い。

 綾は先に白浜を行って仕舞い、亜耶が未だ力の入らない足で後を追う形に成った。巫王の酒癖は、娘婿の自棄酒さえもだしにするのか。そんな思いで近寄って行くと、どうも巫王は素面(しらふ)の様だ。

「不穏な相談をしてるみたいだね」

 綾が二人に声を掛けるまで、亜耶は大蛇を取り戻せる積もりで居た。

「来たのか、…亜耶」

 巫王が言っても、大蛇は振り向かない。寧ろ、神殿に入って行こうとすらした。

「大蛇…!」

 亜耶が焦って声を掛けると、大蛇はやっとぬるり、と此方を見る。冷たく昏い赤い目で透明な何かを探す様に視線を彷徨わせた後、やっとお前か、と亜耶に目を呉れた。

「良かったじゃねえか、恋い焦がれた兄者と同じ目の子が生まれて」

 優しさの欠片も無い大蛇の声など、亜耶は初めて聞いた。大蛇が掴んだ神殿の柱が、みし、と音を立てる。亜耶は足を竦ませ、其れ以上大蛇に近付けなかった。

「此れで俺も、用無しだなぁ?」

「大蛇、酔ってるの?大龍彦(おおつちひこ)は!?」

 綾が慌てて、大蛇の腕を掴む。其れは軽く振り払われ、お前にはもう関係無い、と大蛇の冷たい声が綾にも降り注いだ。

「綾、大龍彦は綿津見宮(わたつみのみや)に行った」

 代わりに巫王が、重々しく言う。巫王も珍しく鋭い気配を放っているのに、亜耶は此の時やっと気付いた。

「亜耶、お前の父として言う。大蛇に報いられないのなら、解放してあげなさい」

「お父様…どう云う、意味…」

夜離(よが)れしなさいと言って居るんだ」

 亜耶は言葉の意味が捉えられず、ただ足元から冷えていく感覚に陥る。大蛇とは、綿津見神(わたつみのかみ)が認めた妹背(いもせ)の仲だ。夜離れなど、出来る訳が無い。亜耶は未だ頭の何処かで、大蛇に甘えていた。

「八津代、そんな事、綿津見神様が許す筈無い!」

「其の許しを請いに行ったのだよ、大龍彦は。もう一つ、綾との誓約も取り消しに」

「う、嘘だ!」

「嘘では無い。大蛇の思いを聞いて、皆で話し合った」

 だって、と亜耶は漸く口から言葉を絞り出した。だって大蛇は、千年私を待って呉れたのに、と。すると(すか)さず、大蛇が壊れた様に笑い出した。薄闇の神殿に似合わぬ、禍々しい笑い声だ。

「亜耶、千年じゃねえ、千と十五年だ…!俺は其れだけ、無駄にしたんだよ!」

 此れまでの時を、嘲笑う(まが)(こえ)。大蛇には何か憑いて居るのではとすら、思わせる声だ。

「僕達だって、此の(もり)守神(まもりがみ)だよ!何で其れを…」

「無理に続けていく(いお)(もり)なら、最初で最後の男長の私で終わらせて良いと思ってな」

 巫王が答えると、綾は今度は巫王に掴み掛かった。何でそんな気紛れで、何で男達だけで決めた。綾はそう責め立てる。

「だってやっと、僕等も子を授かったのに…!」

 綾の悲痛な声が、薄闇を切り裂いて散って行った。確かに今、亜耶の霊眼(まなこ)では闇見(くらみ)が叶わない。魚の杜の、未来(さき)が見えない。

「綾と大龍彦に、子が生まれる…?」

 巫王が驚いて聞き返すまで、亜耶は闇見が出来ない事に心を囚われていた。気が付けば、大蛇の笑い声も止んでいる。

「綾、秘密って、其れだったの…?」

「お前は、兄者の事も二の次にしたのか!?」

 三方から視線を集める中、綾はがっくりと白浜に膝を付いた。途端に海から現れたのは、いつか見た蛟龍(みずち)

「ああ…」

 綾の口から絶望の吐息が漏れ、大龍彦が白浜に降り立った。綾が、泣いている。子を奪われた母の慟哭を、今度は人ならざる綾が響かせている。

「大蛇、もう良いぞ。塒へ帰れ」

 いつもなら手を取る筈の綾を無視して、大龍彦は同母弟(いろと)に告げた。蛟龍が消える時に巻き起こした風が、綾の泣き声と共鳴りする。

「兄者…綾との子は…?」

「俺は見せて貰って居無え。綿津見のおっさんが告げに来たが、綾が妹背岩の裏の洞窟に独りで産み付けたそうだ」

「見せて居れば、奪わなかった…?」

 亜耶が、綾の代わりに聞くと、大龍彦は渋面を作った。

「大蛇、亜耶との話は付いたのか?」

「いいや…綾が、兄者との子って言うから、そっちに…」

「――ったく、綿津見のおっさん、嵌めやがったな」

 大龍彦が小声で(ひと)()ちて、亜耶の方へ近付いて来る。手には、海の気を孕んだ黒曜石の刃を持って。

「まあ良い。亜耶、今勾玉から、解放して遣る」

 亜耶が震える足で一歩下がる間に、大龍彦は悠々と近付いて来た。そして其の手が亜耶の勾玉に伸ばされた時。

「厭っ!」

 亜耶の一声と共に、大龍彦の刃は大きく弾かれた。

「あ…」

 黒曜石はばらばらに割れ、白浜に降り注ぐ。間違いなく、勾玉の霊力だ。亜耶の勾玉は、綿津見神の刃すら打ち砕いて散らした。

「こ、此の子の目は、大蛇の色よ!大龍彦の色じゃ無い!!」

 大蛇の子だから愛しい、大蛇以外の子など生みたくない。亜耶は初めて、本音で叫んだ。大蛇が取り戻せなくても、知って欲しいと願った。

「で、如何(どう)する愚弟(おろと)

「酒が抜けるまで、放って置いて欲しかったが…」

 大蛇はふらりとした足取りで、亜耶と大龍彦の所まで歩いて来る。昏い赤い目は、先程よりは温かい。

「お前の手で、抱かせて呉れ」

 大蛇は、亜耶の抱く赤子に向かって両手を延べた。震えて居た亜耶の足は、其処で限界を迎える。結果大蛇は亜耶ごと赤子を抱いて、白浜に尻餅をついた。

「亜耶、夜離れを考えたのは、嘘じゃ無い」

「知ってる」

「千と十五年、無駄にしたと思ったのも嘘じゃ無い」

「分かってるわ」

「其れでも俺を受け容れられるか」

 いつになく真摯な大蛇の声に、亜耶は迷い無く頷いた。貴男は私の(かな)しい(つま)だもの、と大蛇にだけ聞こえる様に囁いて、亜耶は大蛇に口づける。そうして見えたものが、一つ。

「綾、海馬(うなま)(りん)は無事よ。大龍彦にも見せて上げて」

「もう目隠しが外れたのか…!」

 大龍彦が驚いて言うのに、綾は打ち崩れた白浜で顔を上げた。側では巫王が、綾の介抱をして居る。

「無事…?でも未だ、稚魚なんだ…人の大きさになるまで、あと五年は掛かる…」

「其れが何だ。俺はお前が稚魚の頃から知ってる」

 勝手に名前まで付けやがって、と大龍彦は泣き過ぎて引きつけを起こした綾の元へと取って返す。次の干潮の時には、必ず見せろ。そう言って大龍彦は、綾と小指を絡めた。

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