百三十六、父の矜持
宮で夕餉が終わった頃。ふわ、と霊気を放った後、水鏡が揺れた。澪が直ぐに出ようとするが、時記は其れを押し留める。
「亜耶」
静かな声で、時記は妹姫の名を呼んだ。女達が先に出れば、亜耶に寄り添って仕舞う。其れだけは避けたい、と父としての時記は思って居た。
「時記兄様…兄様も、お怒りだと聞いたわ」
「馴れない赤子の世話は、独りでは大変だよね?」
水鏡の向こうの亜耶は、黙って頷く。亜耶、とまた時記は、静かに名を呼んだ。
「悪阻の時、どれだけ大蛇は君に尽くした?孕みを知った時、どんな顔をした?」
「………」
答えられない程難しい事だったかい、と時記は溜息を吐く。確かに亜耶の孕みは、大きな事件を伴っていた。あの頃、未だ杜に居た時記は部外者として知って居る。
「亜耶、仮に大蛇が人里に下りて来なかったとして、亜耶は独りで其処で子を育めた?」
時記が静かな声で続けると、亜耶ははっとした顔をした。大蛇には、其の選択肢も有ったのだと。寧ろ、族人を苦手とする大蛇には、其の方が魅力的な選択では無かったか。
「大蛇は今宵、神殿に居るの…」
ぽつりと、亜耶が言った。亜耶達を女御館に送り届けた後、自分は夫では無く従者だったと言い捨てて大蛇が行って仕舞った事。大龍彦も綾を置いて、神殿に帰って仕舞った事。
「何処に居るのか分かって居るのに、亜耶は行こうともしないんだ?」
「未だ、体が辛くて…」
「こう云う時こそ、綾に頼むべきでは無いかな?」
綾も大蛇に謝らなければ為らなそうだし、と時記は続ける。其処に澪が、也耶を抱いて遣って来た。
「亜耶さまは、ご自分の非が認められないだけでは無いですか?」
可愛い妹姫からの厳しい言葉に、亜耶は水鏡の向こうでびくりと体を揺らす。
「私、也耶を孕んで色んな方のお世話になりました。子は母だけで育むものでは無い、と。心からそう思いましたわ」
自分だけが赤子に身を捧げている。自分だけが辛い。産女が陥りやすい錯覚だ。端で支える者の事など、心の隅にも置かない産女は多々居る。
して貰って当然、愛されて当然。そんな産女は、子を生んだ後如何為るのか。羽鳥と云う身近な例があり乍ら、亜耶は忘れて仕舞った様だ。
忘れ続けるのか、思い出すのか。どちらにしろ、大蛇とは話さねば。時記と澪の訴えは、少しは亜耶の心に響いたのか。
「大蛇は、千年以上待って居たのよね…」
「そうだよ。杜が代替わりをして、どんなに変わろうとも千年の誓いを忘れなかった」
「其れを、私と綾が台無しにしたのだわ」
今からで間に合うだろうか、と亜耶は言って吾子を見詰める。薄闇の灯りの下でも分かる、赤い目。大蛇譲りだ、と聞いた時記が、少し顔を曇らせた。大蛇は本当に、そう思って居るのか、と。
「亜耶、もう昏くなる。行くなら早く、綾に頼んで」
「ええ…」
力なく返事をして、亜耶は水鏡の前から消えた。
真耶佳に簡単に経緯を説明すると、惘れ果てた、と云った反応が見て取れた。真耶佳も羽鳥に育てられたが、父と共に暮らした時期も覚えて居る。其の差だろうか、と真耶佳は頬に手を充てて考え込んで仕舞う。
「其れとも…暁の王の寵がいつ剥がれて仕舞うか分からない私の方が、母としては恵まれて居るのかしら?」
「真耶佳さまが子を生めば、大王は寵を深めて下さると亜耶さまは…」
「亜耶は、ずっと未来を見るものね。でも私だって、暁の王の御心が離れない様、孔雀を模した羽を広げ続けて居るのよ」
幾ら大王が最後の妻と見定めたとて、妻籠には次々女が来る。真耶佳だって、其れを知らぬ訳では無い。
確かに、亜耶の闇見は後押しにはなる。けれど、常に頼ってはいけないのだ、と真耶佳は論じた。
「澪だって時記兄様に愛される為に、何もせぬで居る訳では無いじゃない」
「其れは…そうですけど」
「愛されるからには、返す物も有る。愛し合うとは、そう云う事だわ」
亜耶は、大蛇さまに安らぎさえ返しはしなかったのね。真耶佳はそう結んだ。
「…大蛇は神山に、塒が有る。帰ると言い出しはしないかと、気懸かりなんだ」
「本当に独りにならないと、亜耶さまには分からない、と?」
「亜耶には、其れも不可能なんだ」
大蛇が塒に帰ったとて、今度は綾と大龍彦に頼るだろう。巫王だって、何だかんだ亜耶に甘い。澪の感じ続けた孤独は、亜耶には到底理解出来無いのだ。
其れに、此度生まれたは男子。亜耶は何れ、巫女姫を生むと予言された娘だ。大蛇は放って置いても側に居る、そう思って居たかも知れない。
「亜耶は傷付く事を恐れて闇見するけれど、本当に傷付いて見る事も必要だよ」
「…そうね。亜耶は霊力に頼らず、大蛇さまと向き合わねば駄目ね」
霊眼は必要だけれど、未来を見過ぎる霊力は要らないわ、と。真耶佳が結論付けた所で宮には大王の先触れが来た。